第5,133号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー208-

 

昨日のブログでお話しした「真我と肉体の本質的関係」は、
正に「心身一如」の大切さを説いてくれているが、
以前のブログでもお伝えしたとおり、
この「真我」と”肉体”の関係は、
一筋に流れる「」に似ている。
が流れる川の上流に位置し、
肉体”はその下流に位置するもので、
肉体的疲れ”は一晩ぐっすり寝れば回復する可能は大きいが、
)」が重い苦しみを背負えば、
それはいつまでも尾を引いて、
下流に存在する”肉体”にまで悪影響を及ぼす危惧がある。
これは私達人間のありのままの姿で、
これをより良い状況下で維持していくためには、
まずは「精神生命の法則」から外れぬように、
命である気」をしっかりと持ってつねに「積極的意識」で事に向き合う。
まだ起きてもいないことに振り回せるようなことなく、
勝手な感情から湧き出た、
勝手な思い込み”で判断するようなことを無くし、
素直」な気持ちを忘れずに、
無理はせずに「やれることを一心不乱で取組む。
そして”肉体”は「肉体生命の法則」にのっとって、
暴飲暴食をさけ、
適度な運動を忘れずに、
無理せず休むべき時には休むという意識を持つこと。

第5,132号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー207-

 

「”真我肉体」の本質的関係
これもまた難しい言葉で、
私も理解するのに苦労した思い出がある。
とかく私達は、
肉体だけに意識が向きがちで、
無病息災だけを望んで、
あたかも長く生きることが、
人生における幸せと思い込んでしまう節が強くある。
私達のこの”肉体”は、
私達に「」そのものではないはず。
私達の「」というものは、
それぞれの”肉体をはるかに超越したもので、
言い換えるなら、
肉体”に衣服を着け、
というものが肉体という仮装をしてそこに在る
こういう意識観念が、
自己の”本体真我命そのもの)”と”肉体”とは、
全く別筒のものだということが自覚できると思う。

このシリーズで何回もお伝えしているが、
私達の「」とは、
この大宇宙の中に存在する「エネルギー)」そのもの。
肉体”の表面的なものを鍛えるよりも、
その「エネルギー)」そのものを、
いつも積極的意識で強く持ち、


を捨てて
元気を忘れず、
勇気をもって陽気に、
強気で根気よく、
活気にあふれ健気に事に向き合うこと
これこそが「”真我肉体」の本質的関係を指し、
心身一如の思考で活きる活き方という。

第5,131号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー206-

 

人生のおける真理”」の在り方について、
天風哲学ではこう記してある。
真理”などという言葉を耳にすると、
私達の多くはどこか宗教じみた感じがして敬遠しがちだが、
真理”とは解り易く言い換えるなら、
いつどんなときにも変わることのない正しい物事の筋道
つまりは「摂理」のことだ。
人は本来この世に生まれ出でたる時から
       たえず真理に接し真理の中で生きている
天風哲学ではこう教えてくれているが、
多くの人はこれに気付けず、
概ね3歳くらいからか?
)」の中に雑念や妄念を抱き
損得と好き嫌いの”感情だけに偏り過ぎた受け止め方考え方に惑わされ始めていく。
つねに「心を清く持ち」ことに向き合えば、
この”真理は誰にでもすぐに気付けると教えてくれている。
この「心を清く持ち」という表現も、
今の人達には古臭く感じるかもしれないが、
この言葉は、
いつも自分に正直に、
素直な気持ちを忘れることなく生きなさいということ。
もっと解り易く言うなら、
挨拶を自ら進んでし、
礼儀礼節を忘れずに、
はい」と「ありがとう」、
そして「ごめんなさい」を、
素直な気持ちで言えるようになりなさいというこ

第5,130号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー205-

 

自己の「生命と人生」を擁護するには、
何はさておき、
いかなる時も、
自己の心の強さ、
正しさ、
清らかさ、
貴さという意識の状態を堅持することしかない
解り易く言い換えるなら、
自己の持つ「意識)」の状態を、
自分で振り返った時に、
恥ずかしくないか?
惨めではないか?
情けなくないか?
こういう”感情が支配していないか確認してみることだ。
自分の「意識)」の状態を、
つねに「積極的意識」で動かしていくには、
みだりに”他人を自分の中に引き込むのではなく、
自分で自分とだけと向き合うことを意識的に行うことだ。
他人を批判することは簡単なことで、
誰にでもやれるが、
自分で自分を批判することのやれる人間は少ない
少ないからこそ、
そういう生き方の人の存在価値というものが高まる

 

第5,129号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー204-

 

悩み”を生み出す原因にもう一つ厄介なものがある。
それは”取り越し苦労”というものの存在だ。
これに陥る人は、
自分で自分の墓穴を掘っている愚かな人間だ。
こういう人にはまず、
積極的意識」が芽生えることはほとんどない。
それが自分の「意識)」で捉えた瞬間から、
それに対する、
不安と恐怖に苛まれ、
自分で自分をどんどんと起き詰めていく。

でも・・・・、
まだそうはなっていない」・・・・のにだ。
こういう人の場合は、
よしんば、
本当に心配すべきことを心配した場合」も、
心配しなくてもいいことを心配した場合”も、
いずれも結果は同じ結果がやって来ることになる。
すなわち、
取り越し苦労”をすればするほど、
その人の心の状態は、
その心配事が起きてしまった後よりも悪い状態に誘い込まれ、
その心配事よりもはるかに重要な、
自分の「”健康状態)”」にまで悪影響を及ぼすことになる。
百害あって一利無し」のこの状態ほど、
エネルギーを無駄に使い、
何の意味も無いことに、
振り回されていると気付かなくてはならない。
こういうのを”「エネルギー)」の無駄つがい”という。

 

 

 

第5,128号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー203-

 

悩み”の「元凶」である”他人”をどうしても意識してしまう人。
それは、
自分の生き方の中に「積極的意識」よりも、
消極的意識が強く働きすぎているから。
これは決して発作的に偶発するものではなく、
日常生活のあらゆる場面で、
消極的思考”が働いてしまっているから。
誰かに対する、
不満(我欲が満たされない状態)。
不信(使用できない、信用しない)。
憤怒(自己の感情が押せられない怒り)。
恐怖(恐れ打算から生まれる忖度)。
悲観(妄想から来る恐怖に近い悲しみ)。
憎悪(感情的に憎み嫌うこと)。
怨恨(感情的な恨みつらみ)。
嫉妬(感情的な妬みや嫉み)。
虚栄(表面的な繕い)。
憂愁(悩み悲しみ)

これらのほとんどが”感情”とうものが「元凶」になっている。
感情”とは、
目の前に起きたことに対する、
自分自身のその時点での受け止め方」だ。
つまりは一時的な心の状態に過ぎないのに、
これを意味も無く引きずって生きる人がいかに多いコトか?
悩み”を減らしたいのであれば、
その目の前に起きている状況を変えようとするのではなく
自分自身の受け止め方を変えてみることだ。

 

 

第5,127号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー202-

 

私たちの多くは何らかの”悩み”を抱えて生きているが、
その”悩み元凶」”に在るのが”他人の存在”だ。
目の前に、
思い通りに行かないことが起こると、
ほとんどの人の場合、
『○○さんがいうとおりにやらない・・・・』
『上司の✖✖が教えてくれない・・・』
部下が指示どおりに”やっているか?”ではなく、
やれているか?」を確認するのが上司の役目。
上司が”教えてくれない”のなら、
自分から教えてください!』と申し出れば良いだけ。
職場の環境や待遇に不満を抱き、
愚痴を垂れるだけの人は多くいるが、
『自分はどうだろうか?』と、
自省」して自分と向き合える人は少ない。
こういう人達の多くは、
まず、
目の前のことに無我夢中に一心不乱になって向き合っていない
だから”他人”のことが気になる。
どんな仕事でもスポーツでも日常生活でもそうだ。
無我夢中になって一心不乱に向き合うこと。
無いことばかりを追い求め、
不満を愚痴にする暇など無いくらいに一心不乱に。
これこそが「生きる姿勢」という。

 

 

 

 

 

第5,126号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー201-

 

見せかけの利他”は捨てろ。
見せかけの愛情”は伝わらない。
『世の中に役立つ人間になろう』
『誰かの役に立つ仕事をしよう』
『周囲から必要とされる人になろう!』
こういうことを口にする人間は腐るほど多くいる。
多くはいるが、
そのほとんどは”見せかけ”の利他愛情だ。
周囲に向ける「利他」の姿も、
誰かに向ける「愛情」の気持ちも、
まずは、
自分自身の中に、
自分が「活きているという”」に対する感謝と、
それに対する尊敬という、
自然じねん必然を理解した心の状態の意識がまず、
己の中になくてはならない。
自分が置かれている環境や条件に不満を言いながら、
自分が取組む仕事やスポーツを通して、
『周りを元気にしよう』などとは、
おこがましいの極みでしかない。
本当に「利他」を意識して生きている人は、
利他」という言葉を軽々しくは口にはしない。
本当に相手に対して「愛情」のある人は、
軽々しく『愛してる!』などとは口にしない。
自分が向き合う人生や仕事に、
敬虔けいけん敬い慎む気持ちの深い様)な気持ちを持ち、
常に感謝を忘れずに日々の生活に向き合うことだ。

 

 

第5,125号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー200-

 

一般的に人間は、
消極的暗示には感応するが、
積極的暗示には感応し難いという局面を持ち備えている。
これは消極的暗示には、
強い意志力を必要としないからで、
積極的暗示には、
自らのやるぞ!』という進取な意識がまず求められるから
このシリーズでも何度かお伝えしたが、
天風哲学の中に「安定打坐法」という、
自分の乱れたを平静にし
を虚にすることで
心意識の新陳代謝を行うトレーニング法がある。
積極的暗示に感応し難い人というのは、
言い換えるなら、
常に自分の「」の状態が乱れているといえる。
自分の生活や環境も、
その良し悪しを”他人”と比較することでしか解らず。
感謝よりも、
不満や不安を口にすることの方が多く過去を引きずり、
いつも、
意識は自分よりも”他人と過去”に向いて、
『あいつのこういうところさえ変えれば・・・・』
『あの頃は良かった』
『あいつさえ反省すれば・・・・』
『あの頃に戻りたい・・・』
『あいつさえしっかりやれば・・・・』と、
人生で一番大切な自分というものを
どこかに置き忘れ
自分じゃない自分で自分の人生を生きてしまいがち

 

第5,124号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー199-

 

人生には、
多くの「気付き」と「チャンス」はそこら中に転がっている。
チャンスとは自己成長への近道であり、
決して、
金儲け出世などという形象に対して存在するものではない。
そしてその「チャンス」を手にするには、
まず「気付き」が必要になる。
ところが多くの人は、
何を怖れ、
何を模索しているのか、
逡巡遅疑”のドツボにハマりこれに”気付けない”。
逡巡遅疑”とは、
せっかく目の前に自己成長のチャンスがあるにも関わらず、
『これやって何になるんだぁ~?』
『これをやる必要性がどこに在るのか?』
『これをやる意味が在るのか?』と、
やりもしない”で、
能書きだけを並べ立て
そこから逃げる自分を、
正当化するための言い訳”で頭の中を一杯にする。
そんなことは「やれば判る」。
子どもでも解りそうな真理さえ解らずに、
恐れと不安に包まれている、
弱い自分にも気付けずまま振り回され続ける
そういう生き方を教えてくれている。