第4,741号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー9

 

私達の心を揺さぶり、
悩みの種をまくのが”他人”の他にもまだある。
それが「」というものだ。
中でも、
もう起きてしまったことを変えることのできない”過去”は、
私達の心にいつまでもぶら下がり、
『忘れたい!』と感じるような嫌な出来事ほど、
いつまでも私達の心の中に潜んでいる。
仏教用語の中に「三世に生きる」という言葉がある。
ここでいう「三世」とは「過去現在未来」のことを指すが、
私達はこの「三世」のつながりの中で生きている。
現在という「」を生きている時にはすでに「過去」は死し、
その「現在」といういうのままた、
一瞬にしてに「過去」に流れ、
すぐさま「未来」という入口に差し掛かり、
それがまた「現在」に変わる。
言い換えるなら、
私達は常に「時の流れの中で
生まれては死に死んでは生まれ変わる”という、
生死の繰り返しこそが生きるということだとの教え
つまり、
過去にどんな嫌な出来事があろうと、
それを後悔しながら生きるのではなく
私達は「今をどう生きるかしか道が無いということ。

 

第4,740号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー8

 

他人との比較”をやめる。
言い換えるなら「他人を自分の中に引き込まない」。
これがやれるようになれば、
いま抱いている「妄想」のほとんどは無くなる。
幕妄想」とは、
姿形はどうあれ、
絶対的存在の自分自身を信じて生きようということ。
コロナでマスク生活が長く続いて、
マスクの脱着が自由になった時、
『顔の下半分を見せたことが無いので・・・・』
『顔の下半分に自信が無いから・・・・』
こういう意識でいつまでもマスクを手放せないでいると、
幕妄想からは遠い世界の中でいつまでも、
妄想と闘いながら生きていかなくてはならなくなる
幕妄想」とは、
絶対的自分を信じる人へのエールの言葉
いつも言っているけど、
この世の中に「完璧な人」など存在していない。
君に無いモノを誰かが持っているかもしれないけど、
誰も持っていないモノを君だけが持っている
これも私達の社会に存在している「原理原則」の一つだ。

第4,739号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー7

 

他人と比較する”人は多くいるが、
そのことにどんな意味があるのだろうか?
悟れば好悪無し」という禅の言葉があるが、
人間関係でその意味を語るなら、
他の人がどうであろうと、
その有るがままを受け入れさえすれば」・・・・・、
自分がそれが好きか嫌いかとか、
相手が自分と比べて、
上とか下とかという感情に流されることは無くなるはず。
誰の言葉だったかは忘れたがこういう言葉もある。
他は是れ吾にあらず」。
これは、
他人のしたことは自分がしたことではなく、
他人が努力したことで自分が成長することはなく、
自分が成長するには自分が努力するしかない”という意味。
私達は一人ひとりが、
どんな人にも、
どんなモノにも比べることなどできない絶対的な存在だということ。
比べようがない」のに”比べようとする”から、
余計な摩擦を生み、
無駄なものが纏わりついて、
不安や悩み、
心配事の種をまき散らすことになっていく。

第4,738号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー6

 

私達に「妄想」を生み出させているモノはなんだろうか?
それは”相対論”で捉える考え方にある。


好き嫌い





・・・・・・・etc
」に相対して””を考え、
」は尊く”は儚い・・・・という感情的な受け止め方
『あいつは凄いと言われている・・・・あいつには負けるか!』
『あの人は評価が高い俺もあの人のように!』
一事が万事、
何かにつけて、
他人を自分の相対的な位置に置いては比べ、
それに負けないようにと生きる。
他人と比べ
他人と競って
他人に勝つこと人生の目標のように思い込んでいく
自分の人生を捨てているかのような”愚かな生き方”の典型だ。
こういう生き方、
こういう姿を「妄想」にがんじがらめにされている姿という。

第4,737号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー5

 

私の大好きな言葉の一つに「幕妄想まくもうそう)」という言葉がある。
その意味は「妄想するなかれ」という意味だが、
この言葉の中にある「妄想」という言葉の意味は、
ありもしないことをあれこれ想像する”ということとは、
少し違って、
もう少し広く深い意味を持っている。
言い換えるなら、
心を縛るもの
心を惑わすもの
あれが欲しい
あの人のようになりたい
誰かの役に立ちたい
会社に貢献したい
これを手放したくないという執着”も、
自分はダメな人間だという思い込みも、
これらすべてを含んで妄想」と呼んでいる。
でもこういう「妄想を抱ているからこそ人間”でもあるからして言えば、
このすべてを断ち切るなどお釈迦様でも難しいかも?しれないが「やれることはやれるはず
それは・・・・ただ見方を少し変え見るだけのこと。
モノとか相手に主観を置くのではなく、
それを「自分という切り口に変えてみることが大切。
これが「妄想を少しでも断ち切る唯一の方法

第4,736号・ブログ

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「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー4

 

禅の教えの中に「脚下照顧」という言葉がある。
難しい言葉に聞こえるが、
その意味は誰でもが知っている、
部屋に上がる時は脱いだ靴をきちんと揃えなさい”という意味。
もう一つ解り易い例を出すとしたら、
喫茶喫飯」という言葉。
これは、
余計なことを考えずにお茶をいただく時はお茶を飲むことだけに集中しご飯をいただく時はご飯を食べることだけに集中しなさい
こういう意味の言葉。
つまり、
先のことをいろいろと考えすぎないようにして、
いま目の前のやれること”だけに集中して、
無我夢中で向き合いなさいということ。
この禅の教えは多くのことを教えてくれている。
私達は必ずやって来るという保証などどこにも無いのに、
明日や遠い先のことを考え、
夢は諦めなければ必ず叶う!」とか、
誰かの役に立ちましょう!」といったお題目的なコトを掲げがちになるが、
それは目指すことではなく、
どちらも、
目の前のやれること”」を全力でやる抜いた結果として、
後から付いてくる結果現象でしかないということ。

人生は計算など出来ないほど実はシンプルに出来ている

 

 

第4,735号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー3

 

人生ではいろいろなことに直面する。
そして、
その直面することが、
自分の思い通り”に行かない状況を迎えると、
私達は、
その状況を躍起になって修正し、
思い通りな状態”に戻そうとしがちだが、
実はこれには原因がある。
私達の人生は「過去が今を創り今が未来を創っていく」。
これは覆しようのない「原理原則」だが、
多くの人はこれを忘れてしまう。
そして、
今が良ければ・・・”という安直な意識の中で生きがちになる。
ところが人生はそうはいかない。
日々の積み重ねが人生と築き上げていく。
一見、
あたり前に思えるようなことを大切に実行してきたか
これで「を生きる自分が決まる
そして・・・・さらにいうなら、
これまでがこれからを決める”のではなく”、
これからがこれまでを決める」という、
もっと大きな深い原理原則がそこには隠されている

 

第4,734号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー2

 

幽霊の正体見たり枯れ尾花
これは幽霊だと怯えて恐れていたものが、
よくよく見てみると、
何のことはないただの”枯れた草花”が風に吹かれて、
ザワザワと枯れた音を出しながら、
どこかで揺れ動いていただけだったということ。
私達が日頃、
不安に駆られたり、
心を落ち込ませているようなコトも、
実はこれと同じで、
客観的に見れば、
何でもないこと”に振り回されていることが、
意外と多くあるということ。
それが証拠に、
君は過去に、
『あぁ~どうしよう?俺の人生もこれで終わりだぁ~』と落ち込んだことがあるだろうが、
それですら・・・・・ほら!
いつの間にか解決してしまっているはず。

人生は”など弄せずとも意外とシンプルな中で動いている

第4,733号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー1

 

企業様の従業員研修を永いことやらせていただいていると、
いろいろな相談事をされることも多くあるが、
そんな相談事にじっくりと耳を傾けていると、
あることに気付けた。
それはそのほとんどが”まだ起きてもいないコト”だということ。
言い換えるなら、
妄想や思い込み。
勘違いや取り越し苦労にすぎないということ。
人生は「死ぬこと以外はただのかすり傷」だと、
若い頃によく亡父に言われたが、
死ぬこと”ですら、
人は誰でも必ず死ぬわけだから、
それを逃れようとしても無駄なコト。
だったら、
今から「覚悟」を決めてしまうコトだ。
覚悟」が無いから、
『死んだらどうしよう?』と、
誰に聞いたところで応えようのない愚問を口にしてしまう。
そんなことは「死んでから考えればよい」。
このシリーズでは、
起きてもいないコトで不安や悩みを抱えない
他人の価値観に振り回されない
自分の人生をシンプルに生きる
セミナーで気付いたこういうことをもう一度思い返して欲しい。

第4,732号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「自分の人生を”素”のままに生きよう!」   ー25

 

桜が咲き出す頃になると梅の花は散り始める。
私達の人生も同じかもしれない。
自分が中心になっていた仕事も、
いつしか次の若手にバトンタッチしていかなくてはならない。
ところが人間というのは、
梅の花のような「素直さ」が足りない。
そうなると”散り際”というものを見失っていく。
咲き誇る花がこの”散り際”を見落とすと・・・・。
その姿は醜いものに変わっていく。
それは私達とて同じこと。
いつまでも自分の立場だけを守ろうとしたり、
その立場で相手を威圧しようとすれば、
いずれはその立場さえ価値の無いモノに変わっていってしまう。
自分のキャリアや実績に物をいわせようとする人も同じ。
こういう人達は、
知らず知らずのうちに「本来の自分を見失い
相手にもその姿が伝わり難くなっていき、
やがては信頼さえも失うことにつながっていく。

25回にわたりお届けしてきたこのシリーズ。
として人生を生きる上で最も大切なことは、
であること
君は君でしかない。
誰も君の変わりはやれない。
自分自身をそういうスタンスで受け止めるところから、
で生きる」ということの「本質」が見えてくる。
いつも心掛けてほしい。

明日からはまた新しいシリーズでお逢いしましょう。