カテゴリー別アーカイブ: 塾長ブログ

第2,749号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生も仕事も全ては”意志力”がカバーする!」 -50-

 

”謙虚”ということが身に付いてくると、
必然的に行動が伴ってくる。
自分が口にしていることと、
行動はどのくらい一致しているのか?
こういうことも、
時折、
自分と向き合って振り返れるようになっていく。
100%とはいわない。
そんな人は存在しないだろうから。
私は50%で十分だと思っている(いや!私が50%にも満ちていないので言っているわけではないですよ〈笑・・・どうかな?)
ともかく、
完全でなくても良いということ。
大切なことは「自省」を
”意志気(意識)”しているかということ。

大それた行動を指しているのではない。
これもいつも言っているけど、
身近なことだけ。

恩を受けたと感じたらまずは返す!
(金品で返すことをいっているのではない。定期的にこちらから連絡を入れて挨拶をしなさいということ)。

誰かを紹介されたら、
紹介してくださった人がいうまでは、
こちらから状況報告を入れる。
紹介してもらったら、
もう紹介者は関係ないでは小学生の遊び仲間レベルの世界だ。
こういうのを昔は”紹介泥棒”と呼んだそうだ。

それから、
借りたものがあるなら、
貸してくれた人に真正面に向き合って
礼を伝えて返却する。
仮にも、
ラインやメールで済ますような輩は一人前とはいえない。

電話やメールを受けたら24時間以内に返すこと。
会合に声をかけられたら、
返事をしなければ欠席と思うだろうなどと、
そこらの学生アルバイトでもしないようなことを、
平気でしているようなら、
これもまた半人前だ。

他人から紹介されたところに営業に出向いて、
契約が取れなかったからと、
次の日からは全く音さた無しでは、
ただの押し売りと同じレベル。

家に帰ったら『ただいまぁ~!』と無事が伝わるように。
食事をする時は『いただきます!』と、
食べられることの喜びを伝える。

こういうこと、
子供の頃に誰もが教えられたでしょ。
それと全く同じ。
こういうことをやっていない人間に限って、
世のため人のため、
関係する全ての人を幸せに!とか、
耳触りの良い言葉を口にする。

アウトプットの「本質」を見誤って、
そうしたところに「意志力」を無駄使いしているのだ。

第2,732号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生も仕事も全ては”意志力”がカバーする!」 -33-

 

「形」で考える人にまず成功者はいない。
「形」で考える人は、
とらえ方が「形(現象)」だから、
何時まで経っても、
物事の”本質”がつかみ難い。
不況だからとか、
時間が無いからとか、
お金が無いからとか、
会社が自分にチャンスをくれないからとか、
いつも、
自分以外のところで、
上手くいかない言い訳を見つけようとする。
自分で、
自責の中で、
現状を変えていこうとは決してしない。

そして、
足元がどんどんと暗くなっていき、
なにも見えなくなってくる。
だから、
目線はいつも遠い先のこと。
明日など来る保証はどこにもないのに、
〇〇年には売上をいくらにしよう!
△△年には必ず上場しよう!
こんなことばかりを口にしだす。
人生は、
一瞬一瞬の積み重ねでしかないという、
この大きな「原理原則」に気付かずに。

仕事でも恋愛でも、
全てにおいて、
自分の求めることに近づいていく人は、
常に”自助努力”を惜しまない。

”自助努力”とは、
自己成長のために自分の足元を見据えて取組む姿勢のこと。

「意志力」というエネルギーは、
いつもこの一つの焦点を定めて発揮されるように存在している。

 

第2,727号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪⦆
「人生も仕事も全ては”意志力”がカバーする!」 -28-

 

人間関係を語る時に、
”相手の身になって!”
”相手の立場になって!”
こういう言葉を口にする人がいる。
サービス業でも、
”お客様の身になって!”
”お客様の喜ばれることをしよう!”
中には、
”お客様の喜ばれることこそが「私達の価値」になる!”などと、
押し売りまがいのことまで言う人がいるが、
考えてみてほしい。
人は100人いれば100通りの考えがあり、
1,000人いれば、
1,000とおりの価値観が存在している。

新入社員の入社式の講話でも、
『新入社員の皆さんも経営者の立場で物事をとらえ・・・』
こんな話をする方がおられるが、
そんなこと「原理原則」からいって無理なこと。
だって、
新入社員は誰一人として、
従業員を抱え、
経営経験を持つ人などいないでしょ。

「相手の立場、
相手の価値観、
相手の性格、
相手のニーズを知りなさい!」
こんなこと透視能力でもない限り、
その一部を推測することでしかつかめない。

人間関係で大切なことは、
”相手”ではなく「自分自身」。
自分の”やれる”ことをやる!
これに尽きる。

メールや電話を受けたら返信する。
会合の誘いが来たら出欠を明確に伝える。
よく、
そういう会合の案内や連絡を受け、
それを読んでいるにも関らず、
それに対する返事をしない輩。
『無視していれば欠席って思うだろう!』
こういう人間が、
社会組織の中では最低なレベルの人間といえる。

自分のこと、
自分の足元をしっかりと見据え、
まずはこうしたことをしっかりと”やる!”こと。
そういう人間だけに、
「徳」というチャンスの扉が開かれる。
目先の契約が取れた、
売上が上がってきている・・・・
そんなことはただの”現象”だから、
もしかしたら、
5年先、
10年先になると、
今日取れた契約は大きな損害を被る元凶に成り得ることもある。

人生というのは、
いつも、
そういうことを私達に教えてくれている。

 

第2,240号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -24-

先日、
受講生の結婚式に招かれ、
こんなスピーチをさせていただいた。
『本日はおめでとうございます。
新婦にチョッと伺いたいことがあるのでが・・・。
彼のプロポーズは受けられましたか?』
『ハイ!(チョッと照れながら)』
『そうでか、それは何よりでした。
その時、彼は”必ず幸せにするから!”といいましたか?』
『ハイ!いってくれました』
・・・とここまでは問題のないスピーチ。
次の私の言葉で、
会場から少し声が漏れた。
『えっ~?』
『ほぉ~!』
その言葉とは、
『”幸せにするから”という彼の言葉は、
そのまま返品されることです。
我が国には、
結婚したら両親の代わりに、
夫が”幸せにしてくれる”という考え方がまだまだあるようですが、
”幸せ”というのは、
誰かが与えてくれたり、
お願いすると頂戴できるものなのでしょうか?
お金持ちの家に生まれなかったから私は不幸。
夫は仕事仕事で家庭にいないことが多いから不幸。
内の旦那の会社は倒産したからもう先がないのと同じだから不幸。
いろいろ不満を口にしながら、
私達は生活をしていることが多くありますが、
これは、
どれもこれも、
「自分の力で自分の意志で”幸せ”を感ずる」という
思いが無いからだと思うのですが?
新郎がプロポーズの時に口にした、
「”幸せにするから”」という言葉は返品することです。
そして、
私達に与えられている”人生における保証”は
死ぬということだけです。
おめでたい席でなんですが、
それは明日かもしれない、
来月かもしれない。
この摂理を忘れずに、
今日からお二人の生活基盤であるご家庭の中で、
それぞれに、
それぞれの役割を
悔いの残らぬよう自責を持って取組まれてください。
そうすれば、
意外と早く”幸せ”という体感を感じ取れると思います。
その日が1日も早く来るようお祈りしております』

結婚式のスピーチで
死ぬ話などダメかな?と思ったんですけど(笑。

第2,239号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -23-

 

自分がしたことが、
他人にどんな影響を与えているか知ろうとしない人は、
自分が”やりっ放し”にしたことには全く気付けていない。
電車に乗ると、
私はたいてい、
連結部に近いところに乗る。
連結部は人が通るたびに、
ドアが開く、
当然のことである。
ところが、
気を付けて見ていると、
ドアを開けて、
自分が通ったあとはそのまま、
ドアを閉めないで行く人間もいる(最近は自然に締まるのが多いが・・・)。
半分開いたままで、
中途半端な状態で隣の車両に行ってしまう人。
駅の公衆トイレで、
そのまま流さない不届きものもいる。
チョッと郊外の道路に出ると、
コンビニで買った弁当のゴミが、
袋に入れられて、
道路脇の植え込みに捨てられていたり、
環七や環八の分岐帯の中には
よく缶コーヒーの空き缶が捨てられているのを見る。
こういうことをする人は、
『用を足した後・・・自分の尻は拭くのかな?』と、
時折、真剣に考えることがある。

自分の後始末をしない人というのは、
大概、
罪の意識がご本人には全くないことがほとんど。
会社なり、
地域なり、
一つのコミュニティーに存在している私達は、
こういう小さな基本的なことこそが、
「関係性」を築くうえで極めて重要なことなのである。

自分で開けたドアは自分で閉めて、
トイレは使ったら流して、
ポイ捨てはしない。
周囲の人達が、
きっと真似をしたくなるような行動連鎖の礎になることこそ、
「関係性」の真髄といえるのだろう。

第2,238号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -22-

 

「関係性」を築けない人と、
「関係性」を築いてもらえない人には
2つの共通点がある。

その一つは、
「関係性」と”関係”の本質的違いが理解できていない。
こういう人は、
ただ〇〇会とかいう集まりで、
意見が一致しただけで『素晴らしい仲間達!』などと
軽々しく口にする。
表面的な笑顔つくりが上手く、
いつもパワフル発言が多く、
ポジティブイメージ満載で近寄って来る。

二つ目は、
自分のしたことが
相手にどんな影響を与えているかを知ろうとしない。
相手の感情などどうでもよい。
昨日まで、
『君達は僕の素晴らしい仲間だよ!』といいながら、
自分の思いどおりにことが進まなくなると、
一方的に、
『もう君達とは付き合わないから!』と
勝手に最後通告をしてきたりする。

人というのは、
感情の動物だから、
いくら正論を相手にぶつけ、
それで相手が傷つくように落ち込んだら、
『チョッと言い過ぎたかな?』と反省するが、
「関係性」を築いてもらえない人には、
これが無い。
『〇〇さんは怒ってるだろうな?』
これも全く眼中には存在しない。
言いたいことを、
ただ一方的に言ったら言いっ放すし、
だから、
自分はスッキリするが、
相手には根に持たれる。
つまり”遺恨を残す”。

企業の管理職にこういう人が多くいる。
部下がよんどころないミスをした時、
『お前!これで内がどれだけ損失を出すか解ってるのか?』
『申し訳ありません!実は・・・』
ここまで聞くか聞かないうちに、
『言い訳するな!』と一方的。
すると部下は、
『ハイ!申し訳ございませんでした!』で終わってしまい、
何の原因追及もやれないままに終わる。
部下はその後も、
結果しか報告しなくなる。

こういう管理職は、
部下との間を
部下と上司という
”関係”という線でしか結べていないことになる。

 

第2,236号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -20-

 

今日は年齢差のある人との「関係性」。

『歳をとりはじめてきたなぁ~・・・』と感ずる年齢になると、
若い人の話がスムースに入ってこないというか?
入れようとしない人がいる。
礼儀礼節も知らない、
自分勝手な行動をしている輩は別として、
歳をとってくると、
若い人と話をする時、
どこかに、
『目上である自分の意見は絶対正しい!』という
固定概念のようなものが染みついているのだろう。
こういう人は、
年齢と共に、
人間関係の幅が必然的に狭められてくる。
行動が伴わないで、
『自分はいろいろな本を読んで勉強しているから!』と、
生意気な”屁理屈”をこねる輩もいるが、
”若い奴らは!”で一纏めにしてしまうのは大間違い。
口の利き方も知らない無作法が重なれば腹も立つ。
私達のような先生と呼ばれる仕事もそうだ。
『先生!』と呼ばれるから、
なんとなく自分が上にいるような勘違いが生まれる。
権威意識が高いから、
相手をどこかで見下してしまう。
礼儀・礼節を知らない若者がいたら、
『コノヤロー!誰に向かって口きいたんだぁ~!』と
やったら終わりだ。
『話の内容はともかく、
人に自分の意見を伝えたかったら、
もう少し言葉を選んで使ったらどうかな?』
このぐらいは言ってもよい。
考えれば、
自分も若い頃は敬語こそ使ってはいたものの、
先輩方からみたら生意気この上なかった思い出が多数ある。
こういうことを振り返れる人ならやれるはず。
やさしさだからとか、
懐深くしてとか、
全面的に聞いてやる必要もない。
そんなことをしたら、
おだてやお世辞のように、
『目先で自分を立ててくれる方が良いや!』と思い込むような
愚かさだけが身についてしまうから。
そして、
そういう人間は本心から心配してくれている助言や苦言に
耳を傾けないドン・キホーテになってしまう。

若い人との「関係性」は、
わが子や末の弟妹のごとく熱意を持って、時に厳しく接することだ。

 

第2,235号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -19-

 

ポジティブとネガティブなら、
ポジティブの方が評価されるのは当たり前。
無責任な人よりは、
責任感の強い人の方が、
信頼も得られるし、
頼りにもなる。
でも、
何事も限度というものを忘れてはならない。
私がいつもいっている「やれること」と
”出来ること”の違いのように・・・。
私達のやることには必ず、
その時々で「限度」というものが存在する。
無理をしないことだ。
『私がやらなきゃ誰がやる!』
『派遣社員だからってなめられてたまるか!』
『絶対に負けるわけにはいかない!』
気持は解らないでもないが、
これらは全て、
”感情論”で出される行動基準で、
摂理の中では無理につながる。
こういうタイプの人は、
『私がこんなにやっているのに、
なんでみんなはちゃんとやらないの?』という
心理がやがて生まれてくる。
よくよく考えれば、
組織というものの中には、
必ず、
それぞれの立場がある。
それぞれが、
その立場にそって、
「やれること」を愚直に懸命に取組むだけで良いのだ。
家庭だってそうだ。
家事一切を奥さんがやっている。
でも、
奥さんが体調を崩し、
寝込んでしまったような時、
今まで全くやったこともない洗濯や掃除、
料理を旦那さんは自分でやらなくてはならなくなるはず。
一人で無理して、
頑張る必要などどこにも無い。

私達はややもすると、
こういうことを勘違いして、
無理をしているようなところが多くある。
無責任に、
だらしなく生きろと言っているんじゃない。
自分をよく見せようとしたり、
誰かのために役立とうと、
無理をして取組むと、
いつの間にか、
それは、
自分の”欲”のためだけに動いているようなことになる。

こんなところにも、
人間関係でストレスが生まれる原因があるのかも?

第2,234号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -18-

 

最近は新宿駅や池袋駅の地下は歩き難い。
スマフォが登場してからはなおさら。
それでなくとも、
ラッシュアワーの混雑時は歩くことさえままならないのに、
電車の乗り降りの時でさえ、
スマフォ見ながら乗り降りする呆れた輩が多い。
駅のアナウンスなど、
焼け石に水どころではない。
全く意味をなしていない。
最近は、
ラッシュ時に電車入口にいても降りる人のために
道を空ける人も少ない。
『すみませ~ん!降りま~す!』と声をかける人も少ない。
地下道では半数の人間がスマフォ片手に”脇見運転歩行”。
都会生活はこれだけで大きなストレスになっている。

でも、
こんな環境下でも、
私達は自然とその対処法を身に付けていく(腹は立つけど)。
スマフォ片手の愚か者とすれ違う時は、
すれ違いざまにサッと身体を横にして、
満員電車の中でキューブレーキがかかり、
隣の人が押されるように寄りかかってきたら、
瞬時に身体の力をスッーと抜いて、
成り行きに身を任せる。

人間関係の極意もこれに似ているかもしれない。
偉そうに威張り散らしている人には、
偉そうにさせておけばよい。
身勝手な人には、
身勝手にやらせておけばよい。
そういう人と、
意見が対立したら、
自分の身が危険にさらされるようなことでない限り、
正面衝突だけは避け、
どこか手ごろな着地点を見つけることである。
どんな肩書を持っていようと、
そういう人は所詮、
器の小さな”小物”に過ぎないのだから。

第2,233号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -17-

 

昨日のブログでお話ししたけど、
計画性をもって取組むことは決して間違いではない。
”計画”が「欲」になるなということ。
どんな緻密な企画を立てても、
所詮、
「計画は計画」でしかない。
人が手がけること、
思いもよらぬミスをしたり、
忘れることもある。
大小の差はあれどアクシデントは必ず起こる。
思い込みの強い人、
他人の意見に耳を貸さない人、
生真面目すぎる人、
こういった人ほど、
まるで小さな積み木を積み重ねるように
何事にも取組もうとする。
その積み上げた積み木が、
なんかの拍子に揺らぎだす。
自分の袖口がチョッと触れてしまったり、
誰かがいきなり立ち上がりその振動で。
繊細に積み上げられた積み木ほど、
些細な揺れで、
大きく揺らぎ、
崩れだす。
”計画通り”でなかった瞬間。
こういう人の頭の中は真っ白になり、
呆然と立ちすくすか、
オロオロとし騒ぎ立てるか、
誰かに八つ当たりするか、
『俺はもう知らん!』と身勝手に投げ出すか、
だいたいこの4つのパターンになることがほとんどだ。

あの太川陽介の”路線バスの旅”。
私は大好きで録画してまで見ていたけど、
あの番組には”学び”が溢れるほど詰まっていた。
あれこそ人生道。
『えぇ~まだ20時前なのに終バス行っちゃったの?』
『なんでこんな道に路線バスが走っいないの?』
もう投げ出したくなったり、
唖然としたり、
オロオロしたり、
でも、
そんな現状にどう対処すべきか?
自分達の力で何とかしなくちゃ!
そして、
実際に”何とかなる!”・・・というか「なるようになる!」。
アクシデントを”楽しむ”ぐらいの自分を見つけることだ。

そんな人のところ、
人は自然と集まって来るものである。