第2,336号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -26-

 

どうして?
次から次にこう”問題”が起きるのだろうか?
こんな気持ちになることは誰にでもある。
そして、
多くの人が、
その目の前に起きる”問題”に振り回されて、
後でこう口にする。
『あの時にあんなことが無かったら・・・今頃は・・・』
でも、
”あの時にあんなことが無かったら・・・・”
今のあなたは、
ここにいなかったかも。
こちらの方が正しいとらえ方!

今日は毎日のように、
目の前に起こる”問題”に翻弄されている人へ!

何年前だったかな?
なんという人が書いた本か忘れたけど、
「ダライ・ラマに恋して」という本を読んだ時、
巻頭に、
チベットの法王ダライ・ラマの言葉が書かれていた。
それはこんな言葉だ。

「いかなる逆境に陥ろうとも、
また、
いかなる災難に遭遇しようとも、
全ては束の間のことである。
こう物事を捉えるようにすることです。
水たまりのさざ波のように、
それらが、
生じては消え、
生じては消えするだけで、
私達の人生には、
そうしたことが繰り返し繰り返し起こり、
決して終わることのない定めなんです。
一つの問題が現れては過ぎ去り、
そしてまた間もなくすると、
別の問題が現れ出してくるのです」

確か・・・こんなことが書いてあったと記憶している。

なんでなのだろうか?
私はこの時に、
人が生きていく人生の”意義”のようなものを感じた。

それは・・・・、
「人生は”試練の連続”で試されている」ということ。
そう!
まるで本試験の前の予備試験のように。
本試験はきっと死を迎える時に来るんだろう。
つまり、
目の前に”問題”が起こらなくなったと感じた時は、
もうそこまで
死神様が迎えに来ているということかも?

そう考えたら・・・・、
毎日毎日、
問題が起きていた方が、
もしかしたら・・・良いかも?

第2,335号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」」  -25-

 

そろそろ4月に入った新入社員も、
1カ月が経過して、
それぞれに想いを感じ始めている頃。
入社した会社に満足して、
新入社員時代を満喫している人。
『こんなはずじゃなかった・・・・』と考え込んでいる人。

先日、
顧問先の新入社員との面談の中で、
こんな人がいた。
『もっと”やりがい”のある仕事がしたいんです!』
今日はそんな人のために!

昔、
こんな仲間がいた。
私と一緒にデパートマンとして社会人生活をスタートしたけど、
彼は、
『もっと”やりがい”のある仕事がしたい!』と、
3カ月で退社。
その後、
NYにわたり、
海外でいろいろな仕事に就いたそうである。
彼と再会したのは、
それから22年後の40歳の時だった。
小さな印刷会社の部長になっていた彼だが、
デパートを退社後の
”やりがい”探しの人生で多くを学んだという。
その第一が、
『結局さぁ~”やりがい”のある仕事なんて、
どこを探して、
誰に聞いても無かったんだよ。
というより、
もともと、
そういうものは存在していなかったんだろうな?』
この彼の言葉には40歳の大人の眼差しを感じた。

”やりがい”のある仕事。
若い頃には多くの人がこう口にするが、
”やりがい探し”をしているうちは、
”やりがい”のある仕事には出逢えない。
なぜなら、
”やりがい”は、
夢や幸せと同じで、
探したり、
追い求めたりするものではなく、
後から「感じる」ものだから。

もし、
入社してまだそんなモヤモヤした気持ちがどこかにあるなら、
そんな人は、
1週間だけでいいから、
無我夢中で、
休憩や食事のことも忘れるぐらいに、
没頭して、
与えられた目の前のことに取組んでみることだ。
もしかしたら、
”やりがい”が見つかるかもしれない。
あのチルチル・ミチルの青い鳥のように!

第2,334号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -23-

 

私達人間は”感情の動物”。
目の前の”出来事(現象)”を受け止めるのは、
全て、
この”感情の支配”によって決められる。
私達のこの身体の働きを「感応性能」という。
そして、
その感じたことで、
どう行動していくか?
これを「反応性能」というが、
考え方(思考)の前には必ず、
受け止め方(感情)が存在し、
その感情に、
それまでの経験や体験が加えられ、
考え方(思考)という段階に移っていく。

思考段階に入ると、
ほぼ次の行動段階に必然的に移るはずなのだが、
ここでまた、
経験と体験が加えられ、
過去の苦い失敗や、
辛い出来事を思い出すと、
それを避けようとして、
行動段階への移行にブレーキがかけられる。
よく、
『やろうとは思っているんですが・・・・』と、
やらないでいる人というのがこれ。
実は、
『やろう!』と思っていない。
『やりたくないなぁ~』と思っているだけ。

私達は、
身体(肉体)、
感情(受け止め方)
思考(考え方)
行動(肉体)
このように身体(肉体)からはじまり、
また行動(肉体)へと戻るような、
流れを瞬間瞬間で繰り返しながら
生きるという形を維持している。
これを私のセミナーでは「生存サイクル」と呼んでいるが、
多くの人は、
この「生存サイクル」ではなく、
どこかでいつの間にか
「生活サイクル」に陥っていることに気付けないでいる。

これが、
「変わりたい!」と口にする人の特徴である。

「変わりたい!」と思っているあなたは、
本来の自分を見失っているのかも?
変わる必要など全くない。
本来の自分を再認識することこそ重要。

失敗することも、
目の前の困難・苦難も、
目の前に起こる全ての”出来事(現象)”、
それ自体は私達を傷つけることはない。
私達を傷つけるのは、
その受け止め方そのものだから。
恐れず、
臆さず進んで行こう!

 

第2,333号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -22-

 

自分じゃない自分を演じながら生きている自分。
他人と競い合い、
他人に負けまいとする自分。
『私もあの人のように!』
『あの人よりも多く!』
『あの人よりも高いところへ!』
他人の人生は他人のもので、
自分の人生ではないのに、
いつも他人と比較することでしか、
自分の立ち位置がつかめない人。

それから、
他人とうまくやることが人間関係と勘違いしている人。
困難苦難を避けようとし、
変化を恐れ何もしないでいる人。

こういう人達の多くが、
いつの間にか、
そうなってしまった自分が問題だから、
”自分を変えたい!”と思い込む。

あなた自身が問題なのではなく、
言い換えるなら、
あなたの考え方(思考)が問題なのである。
例えば、
雨が降るとあなたは、
『あぁ~雨だ嫌だなぁ~・・・』
こんな風に受け止めて、
家から出ないで何もしない一日を過ごす。
でもある人は、
『今夜は銀座で食事だったんだけど、
あいにくの雨で、
でも、
濡れた歩道に車のヘッドライトが光って、
また違った味わいある銀座の街を楽しめた!』
こんな受け止め方をする人がいると、
『いいなぁ~そんな受け止め方が出来る人は・・・・』と、
また、
他人と比較して、
自分を評価しだす。
『あぁ~いいなぁ~あの人は・・・』
こんなふうに、
他人と比較し、
自分を感じている”自分”を、
私達は客観的に見れているはず。
客観的に見れているのであれば、
それは”自分”ではないということ。
でも、
そんな自分が本当の自分と、
いつの間にか思い込んでいる。

ほら!
変える必要などないでしょ。
ではどうすればよいの?
続きはまた明日。

”受け止め方(感情)”
私達は感情の生き物。
”考え方(思考)”の前には
必ずこの感情が存在している。

 

第2,332号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -21-

 

あるセミナーの広告を見ていたらこんな言葉が、
「御社の社員をこのセミナーで変えます!
変わらなかったらセミナー代金はお返しします!」
そして、
その後に・・・・
「過去と他人は変えられない! 変えられるのは自分と未来!」

訳の判らないセミナー広告。

今日は”自分を変えたい”と思い込んでいる人へ。
『何度も自分を変えようと思ったけどできない』
『前向きなポジティブな性格に変われれば・・・・』
私のセミナーに来られる方にもこういう人は多くいる。
こういう人達は、
大きな思い込みをされている。
変わる必要などどこにも無い。
自分の性格を変えれば成長できる。
成功できるという思い込みは大きな間違い。

人はそれぞれに違いがあるからこそ価値があり、
そこに存在意義が生まれる。
自分を変えようとか、
変わりたいと考えている人は、
その本質が見えていない。
それが見えていないから、
例えば、
引っ込み思案の人は、
どこで、
何が原因でそうなったのかに気付けていない。
対人関係で不安を抱く人も、
『私もあの人のように
誰とでも気楽に話せるようになりたい!
だから・・・・
今の自分を変えたい!』
『いつからあなたはそうなったの?
チョッと過去の自分を振り返ってみたら』
こういう人に私はまずこう伝えている。

人は概ね3歳くらいまではほとんど同じ。
みんな他人が深く引き込まれるような笑顔があって、
邪気が無く、
欲が無く、
素のままのあなただったはず。
それが・・・
何かのキッカケで、
その”無”の中に、
欲望、虚栄、偽り・・・・と一つひとつ、
無意識のうちに、
自分自身のウィニングフォミュラー(勝利の方程式)を、
埋め込んできてしまい、
いつしか、
自分ではない自分を演じるようになってしまっただけ。

まずはそれのキッカケがどこにあったのかに気付くこと。
明日はもう少し詳しく。

第2,331号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -20-

 

こんな話がある。

ある村に、
持病の腰痛で悩むお婆さんがいた。
連れ合いのお爺さんに先立たれ、
お婆さんは毎日毎日、
畑仕事と、
家事に追われ、
腰を休める暇もなく、
苦しさから寝付けず、
朝も起きられない日が続いていた。

ある時、
偉い坊さんが都に向かう途中に、
そのお婆さんの村に立ち寄ることになった。
お婆さんもそのお坊さんのお世話係で駆り出され、
腰痛の辛さに耐えて、
接待の役割を懸命に果たしそうである。
すると、
その偉いお坊さんが村を発つ朝。
『お婆さんいろいろありがとう。
大変お世話になりました。
特にあの漬物は美味しかった。
漬物を付けるのに、
重い石を上げ下げするのは大変でしょう?』
『はい・・・それで持病が・・・・』
するとお坊さんが、
『それは難儀なことですね。
そうだお世話になったお礼に
その持病が治る方法を教えて差し上げよう』
そういうと、
お坊さんはお婆さんの手を引いて、
庭先に出ていき、
近くの小高い山の頂上に見える祠を指さし。
『ほらあそこの祠が見えるでしょ、
あの祠は様々な持病で苦しむ人の願いを
なんでも聞き入れ、
叶えてくれる神様が祭られているんです。
あそこに毎日、日の出と共に参拝しなさい。
必ず持病の腰痛は治るはずです。
良いですか、
必ず毎日、日の出と共にですよ!』
次の日の日の出と共に、
お婆さんは毎日毎日、
その小高い山の頂上にある祠を詣でたという。
100日も欠かさずに行っていると、
なんと、
お婆さんの腰痛はみるみる良くなり、
曲がっていた腰さえもまっすぐに伸びたそうである。

これは、
その祠に祭られている神様のお力なのだろうか?
これを”前後論法の法則”という。

”足元を見る”とは、
自分でやれる決めごとを決め、
それルーティンとして欠かさずやる続けること。
ここから始まる。

 

第2,330号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -19-

 

『で・・・何やればいいんだよ?』
この言葉に、
親父から返ってきた言葉は、
『今すぐに自分が”やれること”をやれ!』
『・・・・・・・』
ますます解からなくなっていたのを今でも覚えている。

『何がやれる?』
『歩けるか?』
『歩けるよ』
『手は動くか?』
『当たり前だろ・・・・』

『だったら部屋の掃除でもやれ!』
『えっ・・・・えっ・・・・なんで掃除?』
『それしか今すぐ”やれること”が無いからだ!
間違ってるか?』

そして掃除を始めた。
3日やって、
4日目にはやらなくなっていた。
すると、
『なんだ3日坊主か?』
『だって・・・もう掃除するところ無いよ!』
『自分の部屋がないなら風呂場でもやれ!』
それも4日目にはやらなくなり、
最後の、
『トイレなら毎日使うから続くだろう』と考えて、
トイレ掃除を始めたが、
これは3日も持たなかった。

私達は、
目指すものや、
目指すところと直接的につながらないようなことには、
無関心なところがある。
でも、
世の中には、
『こんなことが・・・?』と思うようなことが、
直接的ではないにしても、
結果として、
目指すところに導いてくれることなどたくさんある。

明日はそんな話を!

第2,329号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -18-

 

『なにか良いことないかなぁ~?』
『チャンスが巡ってこないかなぁ~?』
『俺は運が悪いのかなぁ~?』
若い頃、
こんな言葉をつい漏らしてしまったら、
死んだ親父に怒鳴りつけられた。

『お前にはまだまだチャンスなどやっては来ない。
チャンスがやってきていないコトこそ、
いま与えられているチャンスなんだよ』
当時の私には全く理解できない言葉だったが、
その意味が理解できるようになったのは、
50を過ぎた頃からだった・・・(情けない)。

野球をやっていた親父は、
野球のたとえ話が多かった。
『いいかバッターボックスで、
チャンスボールをみんな待つ。
狙いどおりの球さえ来れば・・・・
そう考えながら、
放物線を描いて
バックスクリーンに飛び込んでいくボールだけを
イメージしている。
何度もグリップを握り直し、
何度もスタンを変えながら、
足元は落ち着かないでいる。
こんな時、
待っているチャンスボールが来たところで
ジャストミートできるか?
それがやれるようになるまで、
チャンスボールが来ても無駄ということ。
来なければ、
お前ひとりのアウトで済むが、
仮にチャンスボールが来たら、
お前は必ず手を出す。
それも、
肩に力の入ったガチガチの状態で。
何とかものにしようとしているからな。
スコアリングポジションにランナーなどいたらなおさらだ。
下手したら、
そのランナーも一緒にドボンだよ』

チャンスがやって来ないのは、
自分に
その準備がなされていないからだということ。

『で・・・何やればいいんだよ?』と親父に尋ねた。
そこに返ってきた言葉は明日また。

第2,328号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -17-

 

目標達成ばかりに焦る人。
一歩一歩、
地道に歩むことの大切さは解ってはいるけど、
チャンスを見つけて、
できるだけ早く成功結果を出したい。
そのうち、
”ラクに上手くいく方法はないか?”と
探している自分がいることにも気付けないまま。

昨日の山登りの話でいうなら、
こういう人は、
頂上ばかりを眺めているだけということ。
いくら眺めていても、
自分が頂上に立って、
絶景を眺めている姿を
どんなに強く思い描いたところで、
頂上にたどり着くことはできない。
こんなことは子供でも知っている。
なのに、
どんどんドツボにはまっていくと、
誰かがヘリで迎えに来て、
頂上まで連れて行ってくれるような
最悪のイメージまで抱くようになる。
でも、
もし仮に、
誰かがヘリで頂上まで連れて行ってくれたとする。
それであなたに何が手に入る?
ラクにこれたという、
一時的なこと以外は何一つ手には入らない。

私も若い頃は、
いつもこんなことばかりを考えていた。
人生は山登りのようなものといった人がいるけど、
本当にそのとおりだ。
だから、
いつも、
『あの目指すところにいくには何が必要なのか?』を
まず考えること。
次に、
『それを手に入れるためには何をやればよいのか?』を考える。
そして、
その”やること”の中で、
自分が「すぐにでもやれること」は何かを考える。
決めたら”すぐにやる!”。
やったら、
目指す結果が出るまで、
血反吐吐いてもやり続けることだ。

“成果”はその都度、出ているのだから。

第2,327号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「未来はチョッとしたことで変えられる」 -16-

 

自分の”足元を見る”とはどういうことなのか?
今日はそのあたりを少し詳しく。

昨日の事例でいうならこういうこと。
お店の売上が上がらない。
すると、
多くの人は、
DMを打ったり、
広告を出したり、
イベントを開催して集客しようと、
必ず
”やり方”だけを追いかける。
すると、
一時的にはチョッと数値が上向く。
そこでまた全ての機能が止まってしまう。
結果だけを追いかけているから、
結果がチョッとでも目指すところに向くと、
それで満足してしまうのは人の心理。

最初の売上が上がらないという「原因」は
全く検証もしないままでいるから、
数日すると、
また同じように元に戻っていく。
手間暇かけて、
それまでお店の問題点に気付かなかった新規顧客まで来ると、
以前の悪い数値よりも、
さらに悪く落ち込んでいく。
これも真理だ。

そんなお店の”足元”を見ていくと、
やると決めたことが
途中でなし崩しになっていることが多い。
時間管理、
整理整頓、
金銭管理などなど、
全てにおいていつの間にか、
決められたことをやっていない。

仕事だけに限らず、
人生も同じだろう。
特に、
自分自身で決めたことを、
途中で何の理由もなくやらなくなる。
こういう人には結果はついてこない。

まずは何か一つでいいから、
「やれること」を決めて、
決めたら、
何があろうとそれに向かって取組むことだ。
そうすると、
仕事などでは、
いろいろな気付きの中から、
「やらなきゃならいこと」が必然的に現れてくる。