第4,374号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー62-

 

人生は「選択決断」の連続だ。
選択」とは岐路に立った時、
自分はどの道を選んでいくかということ。
決断」とはその自分が選択した道。
その道の先には何が待ち受けているのか?
今よりもさらに過酷なことが待ち受けているのかもしれない。
そんな不安と迷いの中で、
嵐のような流れの川に飛び込むようなものだ。
そしてこの「決断」にはまだ付きまとうものがある。
それは・・・・、
決断」をしたかのように振舞うか?
決断」をしたのは自分なのに、
それを他人の「決断」としてしまうか?
後で責任転換できるように、
誰か他人に「決断」させようとしているか?
こうして私達の多くは、
決断」を逃れるために、
多くの時間とエネルギーを費やしてしまう。
私達が人間として成長するためには
試行錯誤しながらも自分で決断」しなければならない。
自分で「決断するというリスクを背負い
その結果を受け入れることをしない限り
人はいつまで経っても大人にはなれない

 

 

 

 

第4,373号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー61-

 

人は「待つ見守る)」ということが以外と苦手だ。
それは”結果を早く知りたがる”という、
私達の持つ“欲の特性”がそうさえる。
特に若い頃には、
この「待つ見守る)」ということがなかなか学べない教訓となっている。
時間」というのは、
本当に「」が与えてくれた何よりの授かりものかもしれない。
事に当たって自分ではなにもしていないのに、
この「時間」が、
勝手に解決してくれたことも決して少なくはない。
私達は目の前のある問題がなかなか解決できないでいると、
ジタバタと右往左往し、
心配していること”が「対処策を考えていること」と、
勘違いしながら自分の殻の中に閉じこもりがちになる。
多くの人の場合、
目の前の問題を解決するのにまず必要なこと。
それは「時間を要する」という、
この「大原理原則」を忘れてしまいがちになる。
その根拠は、
問題の発生時に、
多くの人は、
すぐさまこの状況を変えないと!』と誤った判断をするから。
実施にチョッと考えれば解決方法が判ることでも、
ついつい見逃しがちになってそれに気付くのが遅れる。
困難なことにぶつかったら、
まずは大きく深呼吸して、
決して慌てないことが最初にすべきことかもしれない。

 

第4,372号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー60-

人生では誰もが向き合わないコトに「」というものがある。
どんな人だろうが、
時間と共に老いは進みやがて・・・・、
やがて最後の時を迎える。
この「」でさえも、
それぞれの受け止め方一つで大きくその存在は変わっていく
『死んだらどうしよう?』と不安ばかりに苛まれる人。
『そんなことは死んでから考えればよい』
『最後が来たらそれはお役を全うしたということだ』
人によりその受け止め方は人それぞれだろう。
そのどれが良くて悪いということではなく、
まず、
まだその「の出番は来ていないということ。
それまでに3年か?5年か?10年か?20年か?・・・・。
いずれにせよ、
それ以外にも、
私達が取組まなければならいことはまだまだあるということだ。
どんな局面を迎えようが、
その対処の選択は自分自身にかかっている
いかなる出来事も、
自分自身でその大きさを勝手な思い込みで決めないことだ。
自ら大げさに考えない限り困難は困難ではなくなっていく
自らが困難を求めない限り
目の前の困難と思い込んでいるもの”は
やがて消えてなくなっていく

愛4,371号・ブログ


《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー59-

 

人生には山もあれば谷もあり川もある。
目の前に現れた山や谷や川を見て、
自分自身が、
『高い山だぁ~なんと険しそうな高い山なんだぁ~』
『この深さは何だこんな深い谷は見たことがない』
『この広すぎる川はまるで海のようじゃないか・・・』
こんな風に感じ取ったら、
まずその人はその目の前の山を越え、
谷や川を渡っていくことはできないだろう。
何度も言うが、
人生ではこうした山や谷や川のような”問題”にしばしば出会う。
でも”問題”にすべきは、
そうしたことに出会うか出会わないかではなく
それに対して「どう対処するか?」が”重要問題となる。
なにも、
全てに対して挑戦意識を持って超えようとする必要はない。
人生には”超えたくても越えられない山もある”。
そんな時は、
それはまだ時期ではないということの教えだ。
ただ、
自分がやれることさえしっかりとやれば、
超える可能性が1%”でもあるなら別だ。
越えなければならない山があるなら「超えるか超えないか?」
渡らなくてはならない谷や川があれば「渡るか渡らないか?」つまりは、
状況を避けるためには、
まず、
前進するかしないか」のいずれかを、
自らの意志で選択しなければならない
人生では、
こうして自分の意志で
ハッキリと選択しなくてはならないコトに多く出くわす。
どちらの選択が良いとか悪いとかの問題ではない
それは選択して、
それを行動に移した後に結果として現れてくること。

 

第4,370号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー58-

 

自分の過去を買い戻すほどの大金持ちはこの世にはいない。
人は誰でも、
自分の過去を振り返って、
『あの時・・・○○しておけばよかった・・・・』
『あそこであのやり方ではなく・・・・』
こうやって考えることがある。
実はこれ、
反省」だと思い込んでいる人がいるが、
こういうのは「反省」とは言わず”後悔”という。
まっ、
何もしないで振り返らないことから比べれば良いこと。
そう思うということは、
その過去の経験から、
何かに気付いて、
何かを学び得たいということであり、
自分が犯した”失敗過ち)”が、
決して無駄ではなったことを意味している。
私達が自分の過去から何かを学び得るためには、
その過去の全てを受け入れなければならない
それは、
いまの自分が在るのは、
良いも悪いも、
過去の一つひとつの積み重ねがあったからということを、
しっかりと理解する必要があるから。
だから、
私は、
過去を変えられない”ことは
幸運なこと」だと認識できるようになった。
あの出来事が無ければ私はもっと良くなれた』と思い込んでいるとしたら、
それは、
人生道を歩む人としてあまりにも傲慢なことだといえる

第4,369号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー57-

 

悩み考えることで、
人生における経験の代役を果たすことは決して成し得ない。
それなのに人は考えすぎて、
経験するという機会を自ら手放していることが多い。
人生における大切なことは頭の中で学ぶことは難しい。
あれこれ考えたところで、
目の前の状況が変わることはまずない。
ただ「」が散漫になっていくだけのことだ。
企業組織の中で、
会議!
会議!と繰り返しているところと同じだ。
人生でもビジネスでも、
時に、
氷の風呂に飛び込むような覚悟が必要になる。
氷の風呂に飛び込んだところで、
『ひゃぁ~冷てぇ~!』と叫ぶのが落ちだが、
少なくとも「冷たかったという経験だけは体感できる
そして、
『こんなことは二度と味合わない方が良い』という教訓までもが手に入る

私達は”過去の出来事を変えることはできない
でも私はこれは幸運なことだと、
70歳を超えてやっと気付けてきた。

続きは明日。

第4,368号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー56-

 

私達の人生は、
あくまでもプロセスであり段階に過ぎない」ということを知っておくといい。
ある段階で夢中になって喜んでやっていたこと(泥遊び)も、
他の段階では、
無駄で、
惨めな姿になっているということ。
人生というのは私達が描く”絶対的妄想”を、
少しづつ少しづつ打ち砕いていってくれる、
自分にとって最も適切な指導をしてくれる教師のようなものだ。
例えば、
どれだけお金があろうと、
どれだけ高い地位にいようと、
どれだけの実績を残そうと、
老いて朽ち果てる”結果を逃れることはできない。
そんな自分の、
自分だけの人生の階段を登っていることを、
頑なに拒絶することほど悲しく空しいものはない
それは自分自身を拒絶していることと同じだから

古代エジプトの女性自然学者ヒュパティアはこう残している。
人生は展開し続けるもの。
そして、
その経験を積めば積むほど真実がより理解できる。
自分の人生において、
自分にどんな責任があるのかが解れば、
自分がいま何をしたら良いかが解」・・・・と。
彼女はこのことを2,000年も前に知っていた。
そうなると、
人はいつからこのことを忘れ、
目に見える、
お金や地位や名声を求め、
それを手にすると、
今度はそれを手放さないために、
悲しみや苦しみを避けて、
表面的な、
モノやコトだけを追い求めて生きるようになったのだろうか?

第4,367号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー55-

 

私達は「可能不可能か?」を、
一体どうやって見極めればよいのだろうか?
もしその区別がつけられないのであるなら、
可能か
不可能か?・・・・を考える前に、
むしろそのことを考えた方が良いのではないだろうか?
なぜなら、
私達の人生やビジネスの世界では、
誰もが”不可能と思い込んでいたことが可能になった事例は腐るほど多くあるから・・・

私達が新しい一日を迎え、
その時間を生きるとしたら、
その日は自分の思い通りになる!』と期待しないことだ。
その方が、
自分の活力」を上手に使いこなせていく。
遠い先のことばかり思い描いていると
人は目の前の瞬間瞬間の活力」を削がれていく
解り易く言うなら、
自分の身体の周りを、
柔らかな綿のようなものでグルグル巻きにして、
外からの刺激に耐えようとじっとしているようなもの。
これでは動きが取り難く身動きできなくなってしまう。
それにそんなものを身に付けていたら、
外からの刺激さえ感じることが難しくなる。
つまり、
良いと感じる刺激も、
悪いと感じる刺激も、
それがどんな刺激か?””ではなく、
それを自分がどう感じているか?」が大切だということ。

第4,366号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー54-

 

今日一日”というこの日は、
何度も言うが「大切な授かりもの」。
『一日は24時間しかないんだ!』とよく言われるが、
たった24時間」にするか?
24時間も授かっている」と受け止めるかは自分次第だ。
今日という一日に勝手に限界線を引かない方が良い。
明日何が起こるか判らない
このことは至極当然なこと。
だからといって、
否定的な可能ばかりを見つめていると、
逆に素晴らしいことが起こる可能の芽に気付けない。
否定的なことばかり考えている人は、
やがて脳が麻痺し始め、
良いこと、
素晴らしいことを思い描くことさえ少なくなっていく。
自分にとって一番良いこと」が起こる可能性にかけるより、
何もしないでじっとしていれば安全”だと思い込むようになる。
どんなことでもそうだが、
それが不可能だと証明されるまですべてのことは可能だ
同じように”不可能”ということも、
現時点では不可能に近い」というだけに過ぎないということ。
それでも中には、
何が可能で不可能かをハッキリとさせてからでないと、
物事に向き合えない人がいる
言い換えるなら、
まだ何もしていないうちから不可能だとか、
意味が解らないからやらないと決めつけることの方が、

実際にやった後で不可能だ、
意味がなかったと解るよりまし
だと考えている。
大切なことは、
可能か不可能か?
意味があるか無いか?ではなく・・・、
やる」ということだということが理解できていない。
そして、
もしそれがやった後で不可能だと立証されたら、
それこそ「無駄なことをした」と感じ、
さらに悪い状態を迎えると思い込んでいるから。
それは・・・、
そのような方法で行ったらダメ!」だということが立証されたにすぎないコトなのに・・・。

第4,365号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”心配事”から自分を解放しよう」 ー53-

 

英国の小説家A・J・クローニンの言葉にこういうのがある。
いくら心配しても明日の悲しみは無くならない。ただ今日の活力が失われていくだけだ”・・・・と。
人生には悲しみや苦しがつきものだ。
でもこの悲しみも苦しみも、
それを感じること自体は罪でもなければ何でもない。
悲しみや苦しみと向き合うことは、
人生における大切な学習経験の一つにすぎない
だからといって、
悲しみや苦しみに対して、
事前に心構えをしたところで、
それに対する取組み方が上達するわけでもない。
それに、
実際にその時が来なければ、
それにどのように対処した良いのかも判るはずもない。
大切なことは、
悲しみも苦しみも、
避けるためではなく
それをどう感じるか?」ということにある。
『悲しいこと苦しいことが明日起こるかもしれない』と案じたところで今日と明日を入れ替えることもできない。
明日は明日としてやって来る。
それも時に、
想像を超えた衝撃を伴ってやって来ることも多くある。
もし明日。
本当にそういうことがやって来るとしたら
今日の活力を温存しておいた方が良い