第3,786号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-19-

 

感情の整理」が完璧にやれている人などまずいない。
誰でも、
一瞬の嫉妬や恨み妬みは抱くものだ。
大切なコトは、
そんな時に言葉に出さないことだ。
中でも醜いのは、
『私はさほど感じてはいないんですけど、
いろいろ聞くところによると〇〇さんは・・・・』と、
本人のいないところで、
それも”聞くところによると・・・”と根拠の一つも無い話を、
さも自分が見たかのように語る人。
こういう人は、
その指摘している人にかぶせながら、
自分自身の問題点を暴露しているようなものだ。

人間関係の中で、
自分の心の奥底にあるものを口に出すというのは、
かなりの深い関係性が無ければやってはならない。
口から出れば世間」”という言葉があるが、
こちから出す言葉にはそれだけ決定的な意味を持つということ。
一度はいた唾は二度と飲み込むことは出来ない。

よく、
『本音で言ってよ』という人がいるけど、
相手が語っている言葉に”本音”が感じられない時は、
まだそういう関係性には至っていない」ということ。
相手に”本音”を求める前に、
まだ、
自分が相手にとって、
そういう位置づけにいないことを知るコトの方が、
はるかに大切なことになる。

 

第3,785号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-18-

 

いつも言っているが、
感情」とは目の目に起きた”出来事(現象)”に対しての、
自分の心に起きる”不快か?”の現われ。
常に「自分目線」で、
自責”の中で人生を歩いている人には、
そういった”現象”のほとんどが、
”単なる現象としてしか入ってくることがない。
自分自身をしっかりと見つめ。
他人は他人 自分は自分で生きている人は、
自責で生きる力を備えている。
なぜなら、
他人の存在”が自分の中で希薄だから、
コトが起きた時に、
『あいつのせいだ!』というような発想が生まれにくいのだ。

これもまさしく真理=「原理原則」”そのものといえる。

感情の整理」をやっている人は、
自分がやれること」に意志気(意識)が常に向いているから、
自分の中に”感情”が生まれても、
早い段階でそれに気付けてリ・アクションが早い。
誰かに挨拶をされるとすぐさま気楽な気持ちで返事をする。
誰かに何かを訪ねられれば気楽にそれに応え、
自分が知らないことがあれば、
躊躇なく誰にでも教えを乞うことがやれる。
こういう人は、
時に一部の人から”感情”を持たれたとしても、
それに振り回されることが少ないから、
他の大方の人達からは好感が持たれやすい。

行動心理学からいうなら、
私達人間は、
他人や周囲の噂や評判がどうであれ、
自分に対して素である人にはこちらも””になれる。
これは人間の共通する部分で、
逆に、
実際に本人に確認したわけでもないのに、
他人の噂や評判にを鵜呑みにして流されるような人間は、
感情”の塊を抱え込んでいるといえる。
『えぇ~そうなのぉ~?だったら俺も付き合うのやめよう』
こういう人間は結局のところ、
「そういう人と付き合ったらこっちが損してしまう」という、
自己中で自分さえよければという人間の証だ。

もちろん、
本人のいないところで噂話をしたりするのは、
それが事実であったとしても、
もう自分だけの」しか考えていない証。
だって、
そういうことをして何の得にもならないはずなのに・・・。

 

第3,784号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-17-

 

感情怒り恨み悲しみ妬み嫉妬不満不平劣等感といった感情)”を抱え込むと、
私達人間は、
普段なら何とも感じないようなことまでもが”になりだす”。
そして、
まだ起きてもいないようなことを不安がったり、
確認もしていないようなことを、
まるでもう事実として起きているかのように受け止めたり。
これが”がかり”という厄介な「感情状態」の一つだ。

例えば挨拶一つにしてもそうだ。
『お早う!』とこちらから声をかけたのに、
相手からは返事が無い。
感情”に支配されていない時なら、
『今日は元気ないなぁ~?後で聞いてみるか?』と、
相手のことまでも心配できる余裕もあるのに、
これが”感情”に囚われている時はそうはいかない。
この時を挟んで、
1~2週間前からの出来事を無理して掘り起こすように、
『きっとあの時のことを根に持ってるんだ!』と思い込んだりするようになる。
こうなるともう止められない。
相手の態度が気になって気になって、
思い込みと勘違いからどんどんと妄想は膨らんでいく。
その後、
その挨拶で返事をしなかった相手が、
誰か別の人間と話をしている姿をたまたま目撃したりしたら、
この返事をしなかった相手だけに留まることなく、
『あいつかぁ~俺の悪口を吹き込んでいるのは・・・・』と、
さらに自分の中で妄想は広まりばかりだ。

だから私は、
「明るい挨拶は周囲の全ての人を明るくする」とか、
「あなたの明るい挨拶で職場を元気にしよう!」といった、
挨拶の奨励方法は好ましくないと考えている。

挨拶とは「自分のやれること」の基本中の基本のようなもの。
だから、
そこの”相手”という他人を置くこと自体が大間違いだ。
誰かに返事を返してもらうため?
職場を明るくするため?
周囲の人達に元気を届けるため?
そんな意志気意識)で向き合っているから、
見返り返事)を求めるようになっていく。

自分のやれること」として向き合っていれば、
相手に対しての”感情”は湧き出る隙間もないはずだ。

企業の中での挨拶運動なども、
こうした「本質」を置き忘れると、
組織は全く違った方向に向いていく危惧に苛まれる。

 

第3,783号・ブログ

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「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-16-

 

感応性能反応性能
私達が生きている社会組織の中の”人間関係”は、
全ての分野において、
感応反応という、
この2つがまるで法則のように大きな影響を与えている。

これは自分自身の中だけで働くことも多くある。
例えば、
自分の好みの異性に出逢ったとする。
『おぉ~素敵な人だなぁ~声をかけてみようかな?』・・・
これが「感応性能」。
ところが、
過去に同じようなことがあり、
交際を申し込んだが、
あっさりと断られた経験を持っていたりすると、
『でもなぁ~・・・また声をかけても断られるかも・・・』・・・
これが「反応性能」。

対人関係で見るなら、
好感をもって接していると相手も好感で返してくれる。
感情で接していると感情で返されてくる。
うわべをどんなに取り繕っても、
人間関係というのは”互いの感情”によって作り出される。
言い換えるなら、
人間関係”というのは自分と相手との「感情関係」といえる。

まぁ~。
これくらいことは社会人になればほとんどの人が、
自分の経験上からも理解できているはずだが、
にも拘らず、
同じようなパターンを繰り返す人が、
これもまた多くいるのはなぜなのだろうか?

それはとにもかくにも、
自分自身の”感情”を管理できていないからだ。
言い換えるなら、
自分自身の「感情整理」がやれていないということだ。

 

 

第3,782号・ブログ

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「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-16-

 

細かく分析していくと、
どんな人でも、
平均よりも強い傾向が現れるところは持っている。
綺麗好きも時間に細かいことも、
病的なレベルは別としてそれ自体は決して悪いことではない。
ただ、
そういう自分を自覚しているかいないかということだ。
自覚”していれば、
自分はある種の人間や反応に対してイライラしやすい性格なんだ」ということも理解できてくる。

この”自分を知る”ということは、
自責」で生きていかねばならない人生においては欠かすことが出来ない。

例えば、
自分が尊敬する上司や知人がいたとする。
自分はその人に対して敬意持っているから、
その人に対しても精一杯の礼を尽くしてきたし、
その人もまた、
自分を可愛がってくれ、
何かにつけて心配もしてくれていた。
こういう間柄の時は、
お互いに引き立て合う関係だから、
感情”が生まれることはまず無い。
ところが、
何かの拍子に、
その尊敬する人が自分を蔑ろにしたり、
裏切り行為をしたらどうだろうか?
自分の中の尊敬は一気に侮蔑に変わるはずだ。
これまでの尊敬の念が強ければ強いほど、
反発の感情も強くなっていくはず。
こうなると、
これまでの相手に対する尊敬は何だったのだろうか?
相手が可愛がってくれていたからそういう気持ちになったのか?
お互いに利用し合う意味で、
そういう関係を見せかけで作っていたのか?

こういう感情の動きを、
人間社会では感応性能反応性能と呼ばれ、
誰しもがこの”感情生活”の中で生きている。

続きはまた明日。

 

第3,781号・ブログ

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「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-15-

 

人間なんて不完全の極みだから、
全てにおいて完璧な人などいない。
時間には細かいけど、
整理整頓のやれない生活環境のルーズな人。
逆に、
もの凄く奇麗好きで、
デスクの上やロッカーなどはきちんとしているのに、
時間にはルーズな人。
いろいろなタイプの人がいる。
感情”に支配されやすい人の特徴は、
この原理原則が理解できていない人が多い。
つまり、
ある神経が突出している人というのは、
その神経を逆なでするような状況や人を目の前にすると、
『なんでこいつはこんなにだらしないんだぁ~』と、
それが抑えきれずに、
感情”がメラメラと湧きだしてきてしまう。

自分は○○に関しては、
他の人よりチョッと神経質なところがあることを自覚できれば、
この”感情”を湧きださせることも少ないはずだが、
感情”が起きやすい人は、
自分のそういう突出した性格があることを認めることは少ない。
なぜなら自分がそれを自覚できていないから。
奇麗にすることはあたりまえ。
時間も1秒は1秒とまで言い切ったりし、
自分よりも、
周囲の他人が性格的な偏りがあると思い込んでいる。

こういうことだけに限らないが、
人間は、
自分が「こうだ!」と決めたことが”正しい”と思い込むと、
全ての「」は他人にあると思い込む。

感情を整理する」とは、
そういう自分を時折でいいから見直すことだ。
見直す”とは、
外から自分を観察するイメージで向き合ってみればすぐに判る。

第3,780号・ブログ

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「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-14-

 

虫が好かない相手”は、
もしかしたら貴重な存在かも?
その相手とのやり取りを、
もう一人の自分インサイダーサポーターとして、
見つめ直してみると、
自分のぎこちなさに気付けるかもしれない。
意味の無いことで振り回されている自分。
つまらない一言で苛立たされている自分。
それらの全ては、
実は”自分じゃない自分”がそうされているのであって、
本当の自分はそうではないということにも気付ける。
それが解かるだけでも大収穫。
自分自身が、
自分の”感情”に目覚めたことになるのだから。

大切なコトは。
いつも言っているけど、
他人目線”ではなく常に「自分目線」だ。

私自身はどちらかというと短気な方で、
年齢を重ねてだいぶ収まってはきたが、
それでもどこか気の短さは残ってしまっているようで、
回りくどい言い方や、
スローな反応にはいまでも苛立ちを覚える(笑。

でもそういうことを気にしているのは「自分だけ」。
こういうことはほとんどの人に見られる。
綺麗好きな人にはだらしない人が気になり。
神経質な人には無神経な人が気になり。
約束時間を守る人は遅れる人が許せない。
つまり、
あるコトに突出していると、
その神経を逆なでするような行為が気になる。
別に周囲の人が、
意識して逆らっているわけではないのに・・・。

実はこういう”感情”も「感情」の中の一つといえる。

そういう相手には、
それと分かった時から、
『あぁ~この人の基準はこのレベルなんだなぁ~』と、
自分自身が自覚すればよいだけ。
そして時間に遅れる人との待ち合わせ時間は、
それを見込んですることだ。

第3,779号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-13-

 

人付き合いの中で、
どうしても”虫の好かない人”というのは、
誰にでも一人や二人は存在する。
顔を見るのも嫌。
話しをするのなど持っての他という人が。
そういう相手とは、
付き合わない”のが一番良いのだが、
仕事の関係や、
ご近所付き合いではそうもいってられない場合もある。
そんな相手と接する時は、
無理に相手に合わせようとしないことだ。
話は、
嫌なら「聞き流して」いれば良い。
もしそれが上司なら、
言われた言葉に対して”BUT(でも、しかし)”は使わないこと。
上司の話は聞いて、
『なるほどぉ~』と受け入れておいてから、
『あなたの意見は理解しました”and(そして)”今度は私の意見も聞いていただけますか?』と前置きして意見を言うこと。
これで『君の意見は要らない!』といわれたら、
そのまま上司の言うとおりにすればよい。
自分で意見を申し伝えようとした事実だけは残る。
あとはその上司の問題だから。

虫の好かない相手”と接した時の自分の”感情”。
これをはこれで、
じっくりと見つめ直してみると意外と興味深いことが出てくる。

相手の言葉に異常に過敏に反応している自分が見えたり。
何か言われると、
その裏に隠されているのではないかと思うことを考えたり。
嫌いなくせに、
視線の片隅ではいつも相手を捕らえている自分が見えたり。

そういう相手は、
意外と自分自身を振り返らせてくれている貴重な存在かも?
感情の整理」はこういうところでも役に立つ。

第3,778号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-12-

 

感情”というのは後で思い返すと恥ずかしくなる時がある。
他人に嫉妬したり、
羨んだり、
あるいは拗ねたり、
ふてくされたりすることは誰にでもあるコト。
その時はそうでも、
感情の整理」を心得ている人は、
自分のそういう”感情”を素直に認められる。
これがやれるようになると、
『あぁ~俺は彼のことを羨んでるなぁ~』と自覚するだけで、
『彼は彼、自分は自分だ!』ということも自覚可能になる。

逆に、
感情の整理」が下手な人は、
自分の”感情”をなかなか認められないので、
自分で自分自身を自覚することが難しくなる。
そうやって自分に目線を向けられない人は、
結局は他人のせいにしていくしかなくなる。
『あいつがこんなことを言うから・・・・』
『自慢話ばかりしやがって・・・・』
実は「感情生活」の明暗を分ける大きなポイントがここにある。

自分の”感情”が自覚できれば、
あとは自分自身の問題だけだが、
他人のせいにしていくと、
いつまで経っても”他人の問題”が残ったままで、
自分ではコントロール不可能になっていくだけ。
その不可能性積もり積もれば、
ストレスとなって我が身に返ってくるだけのこと。

そしていつしか、
『あんな奴の顔は見たくない!」といった心理が生まれ、
関係性を壊していくことになる。

第3,777号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「”感情と思考”はコントロールできないが整理は可能!」-11-

 

楽しむ”の語源というか、
私の家柄は日本に数少ない神社ゆかりの苗字をいただいており、
本家の歴史は1,200年以上にもなる。
我が家は遠い分家の股分家だが、
それでも多くの古い書物が亡父の仏壇の中には残っている。

そんな書物を時折、
あてもなく目を通していた時、
この”楽しむ”という言葉で出逢ったことがある。
それが・・・(本文はかなり長いので抜粋)。

「此の時に当りて上天(あめ)初めて晴れ、
衆(もろもろ)倶に相見て面皆明白(おもみなしろ) し。
手を伸して歌ひ舞ふ。
相与( あひともに) に称曰はく、
「阿波礼。(あはれ)」〔言ふこころは天晴なり。〕
「阿那於茂志呂。(あなおもしろりし)」〔古語に、事の甚だ切なる、皆阿郡と称ふ。言ふこころは衆(もろかみ)の面明白(おもしろ)きなり。〕【前面が明るくなる意】
「阿那多能志。(あなたのし)」〔言ふこころは手を伸して舞ふなり。今楽しき事を指して多能志と謂ふは、此の意なり。〕【楽しは手伸し】・・・・・」

これは天照大御神が天岩戸から扉を少し開けて除いた時の様子。

楽し”とは「多能志」。
多くの志を持って向き合って(挑んで)いくと、
全ては“能(楽しい出来事、表現)”のようになる。
『さぁ~あなた様もその手を伸ばして私達と一緒に舞を・・・「手伸舞楽しもう)」』との意味がある。
これはその書物のその頁に挟まれていた亡父のメモ書きから。

楽しいからやるんじゃない
一所懸命に挑戦していくから。
無我夢中で取組んでいくから”楽しさ”というものが手に入る

企業組織の中でも、
「仕事は”楽しく”やろう!」を共有するのではなく、
こうした原理原則の中に在る本質の共有が成されていないと長続きはしない。