第3,205号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -29-

 

目の前のことに「無我夢中」に取組んでいるのに、
『○○さんがあなたのことこう言ってたよ!』
こんな他人の身勝手な”批評”が気になってしまう人。
実はこういう人は、
「無我夢中」になっている”つもり”なだけで、
言い換えるなら、
「無我夢中」に生きている振りをしているに過ぎない。
この「ふり」というのは、
まさに”振り回される”ということ。
自分では意志気(意識)して取組んでいるつもりだが、
実のところは、
自分の周りに起きるコトに”振り回されている”だけ。
私のような年齢の人間が、
“若いフリ”をするのと「若い」というのは別物と同じで、
気付かないで続けていると、
そのうち大けがをしかねない。
「無我夢中」になってコトにあたっていると、
周囲の”批評”は耳に入らなくなるというか、
入ったところで反応しない自分がそこにいる。
他人の”批評”にいちいち反応している時間があったら、
「無我夢中」になっていることに、
1秒でも時間を割きたいと思うものだ。
一方、
「無我夢中」に生きている振りをしていると、
他人の”批評”についつい反応してしまう。
「無我夢中」で生きている人は、
いつも”本音”が大原則だ。
だからどんなにキツク強い言葉だろうが、
”本音の評価”には真正面から向き合う。
仕事も人間関係も・・・・。

第3,204号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -28-

 

他人の評価を気にしている人は直ぐに判る。
自分自身が他人の評価を気にしている人は、
他人の評価・・・・というよりは、
”批評”が大好きだ。
聞かれてもいないのに、
『○○さんはダメだねぇ~!』
『あの人はねぇ~・・・・』
こういう言葉の多い人は、
まず目の前のことに「無我夢中」になれていない。
もっというなら、
目の前のことに嫌々か、
仕方なく向き合っている人が多い。
サラリーマンで酒の席に集まると、
会社の批判か、
上司の悪口を言い合っている人は、
まず「無我夢中」になって取組めることがない人達だ。

そして、
そういう人に限って、
世のため人のためとか、
会社への貢献度とか、
仲間へのお役立ちとか、
絵に描いた餅のような話が良く飛び出す。
表面手に繕って、
満面の作り笑顔で、
両手を擦り合わせて、
まるでこちらにすり寄るように近づいてくる。

「無我夢中」で目の前のことに向き合っている人は・・・・、
”批判”される側。
表面的に繕いながら生きている人は・・・・、
”批判される側”ではなく”批判する側”。
時代を超えて、
国を超えて、
これが人間の共通点かもしれない。
”批判する側”より”批判される側”で生きたいものだ。

第3,203号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -27-

 

人生は有名になるとか、
みんなから愛されるようになるとか、
そんな必要性などどこにもないような気がする。
もっというなら、
他人からの評価など気にすることもない。
自分の人生なんだから、
大切なのはあくまでも「自分流」。
いつも言っているけど、
こういう表現をすると、
『身勝手に生きればいいのか?』と勘違いする人もいるが、
そんな話をしているのではない。
「自分流」とは、
他人様への気遣いとかの前に、
自分自身に目を向けて「自責」で生きなさいということ。
セミナーの受講生の中にも、
『私はやっているのに・・・みんな解ってくれない!』と、
嘆く人がいるが、
”みんな”から解ってもらうなどと考えるからそうなる。
せいぜい1割の人に理解してもらえるのなら、
それはもう合格点だ。
加えて言うなら、
厳しい苦言を呈してくれる人がいるなら、
その1割は3倍の存在になっているといえる。
他人の評価を気にし過ぎる人は、
「いいね」というお気軽クリックをされるたびに、
心の中でホッとしているようなところがある。
「無我夢中」で何かに取組んでいる人は、
”お気軽「いいね」クリック”が増すたびに不安になるという。
『自分がこれだけ精魂込めて取組んでいることは、
こんなにも多くの人に、
こうも簡単に理解されてしまう程度のものなのか?』と、
愕然とするらしい。
まッ、このレベルにまで達することはなくても、
余り周囲の評価を気にし過ぎないようにすることである。
いつの間にか、
自分自身を見失ってしまうことにもなりかねない。

第3,202号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -26-

 

チョッと順調にいくと有頂天になる人は、
本質的には取り組んでいることに夢中になれてはいない。
そういう人の意志気(意識)は、
他人からの評価だけに向いているから。
世の中には、
お金持ちでなくても輝いている人はたくさんいる。
有名ではないけど輝いている人も多くいる。
そういう人は、
みんな「無我夢中」になれる何かを持っている。
「無我夢中」になれるコトに出逢えず、
他人からの評価や評判に”夢中”になっている人は、
嫉妬深い人が多い。
『あいつはいいなぁ~!』
『なんであいつがあんなに評価高いのぉ~?』
輝いている人が、
目の前のことに「無我夢中」に取組んでいることには気付かず、
そういう人の評価という現象面だけに振り回されるから、
「無我夢中」で生きている人の輝いている顔をみると、
対極的に意志気(意識)が働き、
自分が「無我夢中」に取組んでいないことは横において、
輝いている人が、
まるで棚ぼたのように評価を手にしたかのような錯覚から、
”嫉妬”という卑しい心が芽生えてしまう。
心理人相学からいうと、
そういう人が年齢とともに重ねていくシワは、
笑いジワではなくタテジワが多くなるという。
世の中は、
勝ち組と負け組ではなく、
目の前のことに「無我夢中」に生きて輝く人と、
そういう人を見て嫉妬しながら生きる人、
この二通りしかないような気がする。

第3,201号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -25-

 

人生で受験すべき”試験”は、
入学試験や就職試験のように、
どこかの会場で受けるものとは限らない。
毎日の通勤電車の中、
昼食時や酒席での立ち振る舞い。
いつどこで、
どんな試験管に見られているかわからない。
大学試験も就職試験も、
合格がゴールではない。
有名な大学に受かろうが、
一流企業といわれるところに合格しようが、
その程度のことで有頂天にならないことだ。
どちらも、
やっとスタートラインに立てたということ。
よく政治家が選挙に当選すると、
まるですべてが終わったかのように、
万歳して有頂天になる候補者が多いが、
人はとかく、
満足した瞬間、
チョッと名が売れた瞬間、
それだけではない、
目の前のことが順調に言っている瞬間というのは、
ついつい、
傲慢になってしまう生き物だということを忘れてはならない。
生きている限り”試験”は続くのが人生。
これから次のステップにという扉の前で、
満腹状態で動けなくなってはそれは死に体と同じ。

 

 

第3,200号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -24-

 

大学受験や就職試験と同じように、
人生にはどんな分野にでも、
入学・入社試験というものが存在している。
それは、
大学の入学試験のように英語や数学はないかもしれない。
入社試験のように面接や性格判断テストもないかもしれない。
それは正しく「実力試験」だ。
これも料理人になるための料理の実技試験とは違う。
技術者のなるための技術力の試験でもない。
営業マンになるための営業力を見られるわけでもない。

それは、
あなた自身が、
いま目の前のことに誇りと情熱を持って取組んでいるか否か?
これが問われるだけ。
基本的なことは、
挨拶に報告・連絡・相談。
健康管理に時間管理、金銭管理、整理整頓。
まずはこれだ。
入社して3年~5年で、
自己怠慢による遅刻が1回でもあるようなら、
次の5年から10年は心して取組まないと、
まず試験には合格できない。

私の顧問先の多くでは、
評価表の第一歩にこの基本項目が入れられている。
どんなに営業成績が良かろうが、
どんなに業績を上げようが、
この基本項目が不足していると、
「B+」という評価から上には登れない。
この「B+」というランクの上には、
最高ランクの「S評価」まで4段階もある。
さらには、
たとえ「S評価」を勝ち得たとしても、
それを維持していくには、
また更なる試験が待ち受けている。
人生とはそんな”試験”の連続で評価されていく。

そしてこの”試験”の結果に、
また振り回されることなく生きるには、
心底「無我夢中」になって取組んでいくことしか道はない。
「無我夢中」になれないで人生を歩んでいると、
それは”嫉妬人生”へと変貌していく。

第3,199号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -23-

 

私がサラリーマンの頃、
仕事に対するゴールはいつも”評価”だけだった。
上司から高い評価を得たい!
つまり、
上司から見て、
『あいつは使えるよなぁ~!』
『あいつは素晴らしい!』と、
褒められるためにやっていた。
25歳頃だったか?
私が『俺は褒められて伸びるタイプなんだ!』と、
ある会話の中で話したら、
『そういうレベルは子供の頃だけにしろ!
大人になって”私は褒められて伸びるタイプなんです”などと語っているようでは大人とは言えないぞ!』と、
強く叱責されたことがある。

なぜなら、
”褒められるために”取組んでいるようなことは、
自分自身が「無我夢中」になって取組めていない証。
本当に「無我夢中」で目の前のことに取り組めている人は、
気安く褒められたいとも思っていないし、
認められたいとも思ってはいないものである。
むしろ、
他人から容易に理解されないことに打ち込んでいる自分に、
強い”誇り”のようなものさえ感じているのかもしれない。

『良くやるよねぇ~』
『そこまでやるぅ~?』
『そんなことやって楽しいの?』
これこそが「無我夢中」に生きている人にとって、
最大の誉め言葉かもしれない。

第3,198号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -22-

 

私の受講生には様々な職業の方々がおられる。
経営者の方やお医者さんもいれば、
国会議員や芸能人、
公務員の方もいれば自営業の人も。
パチンコ店の店長さんや旅館の仲居さんとして働く人。
どんな職業について、
どんな人生を歩んでいても、
私達の人生には必ずリスクが伴う。
最初についた職業でうまくいく人もいれば、
どの世界にも向き不向きがり、
最終的には”能力の格差”で決まるといえる。
だからといって、
自分の”能力”の有無を他人に委ねてはならない。
『私には”能力”があるんでしょうか?』
『このままやっていて上手くいくのでしょうか?』
セミナーで時折、
こういう質問を受けることがあるが、
いつもハッキリと申し上げる。
『そういう質問をされている内は100%上手くはいかない!』
もし、
今の仕事が”無我夢中”で取組めていたとして、
その結果、
評価も収入も上がらない、
食べていけないと悟ったら、
にっこり笑って黙って去ることだ。
そして自分で新しい道を切り開くか、
チョッと切り口を変えて取組んでみるか?

自分自身が”無我夢中”で取組んでいると自負できて、
なお、納得のいく結果が出せないのは、
自分の「幸せ」は別のところにあるという、
天からのメッセージかも。
でも、
『ここに自分の”幸せ”は無い!』と気付けることは、
大きな気付きでありラッキーなことだと思う。
“気付き”とは「受け止め方」そのものだから・・・。

 

第3,197号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -21-

 

”自称エリート”と思い込んでいることが自覚できれば、
すぐさま、
それを手放すことだ。
そうしないと、
気が付いたら、
手のひらの上には何も残っていないことになりかねない。
何も会社を辞める必要はない。
在職したままでも、
そういう意志気(意識)を捨てれば、
職場の中で人生を存分に謳歌できる。
例えば、
人材育成だ。
部下の業績が上がるようなこととか、
部下のモチベーションを上げるとかそういう意識を捨てる。

私はセミナーや研修の依頼を受ける時、
一つだけ決めていることがある。
それは、
『社員を変えて欲しい!』
『社員のモチベーションを上げて欲しい!』
こういうご依頼は全てお断りさせていただいている。
どんなセミナーや研修だろうが、
他人を変えるセミナーや研修は存在しない。

そういうことではなく、
あなたが退職の時を迎えた時、
一人でもいいから、
『〇〇さんとお逢いして私の人生観は変えられました!』
こういってくれる人がいたら、
あなたは正しく、
自分の人生を謳歌した証となるはずである。

第3,196号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生はなんでも”無我夢中”で取組む奴が勝ち!」 -20-

 

誰だれはエリートコースに乗ったとか、
誰それエリートコースから外れたとか、
こういうことで騒いでいるサラリーマンを時々、
電車の中とか居酒屋の隣席で見ることがあるが、
「真のエリート」ってどういう人のことを言うのだろうか?
私は社会的階級としての上級クラスの人たちを指すのではなく、
自分が夢中になれるコトを、
自らの手で創りあげ、
それを謳歌している人のことを指すような気がする。
当たり前のことだが、
世にいうところのエリートコースに、
最後まで残れるのはただ一人。
でも最後まで運よくそれに残ったとしても、
その頃には頭も白くなっているか薄くなっていて、
もう人生も最終コーナーに入っている人の方が多いだろう。
それはそれで立派な人生かもしれないが、
どうせなら、
気力も体力もある時に人生を謳歌したいものだ。
最悪なのは、
エリートコースといわれるものからとっくに外れているのに、
それに気付かずにしがみついている人。
こういう人を真の落ちこぼれてというのかもしれない。
こういう人は”自称エリート”という人に多くいる。
”自称エリート”と思い込んでいるうちは、
人生は謳歌できない。