第4,801号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー70

 

我が国には、
伝統芸能といわれる「」という素晴らしいものがあるが、
この「」で、
一番大切な表現力の一つが余白」といわれている。
余白」これを「」の世界では「)」という。
言葉を変えて解り易くいうなら、
」でも「落語」でもそうだが、
動かない語らない瞬間の”というものがある。
観衆はこの”止まった瞬間(「」)”に、
息を詰め何かを感じ取る
落語」では「」にドッと笑いが起きたりする。

人間関係でもこの「」というものが必要な時がある。
」を私達の世界に移して考えるとそれは「沈黙」になる。
言葉巧みな手法も表現力の一つだが、
この「沈黙」は時に、
言葉や声や表情といったものより、
はるかに大きな表現力となる
言い換えるなら、
私達は多くの場合に、
言葉表情態度といった、
相手からよく見えるものにだけを、
やり方)”としてそれを用いて、
思い通りの結果を追い求めがちになるが、
大切なことはそんなところには損坐していないということだ。
言葉が上手く操れなくても、
表情が少し硬くても、
態度がぎこちなくても、
自分自身がそれに向き合う姿勢在り方)さえ、
真摯で愚直で懸命であるなら
必ず相手には、
それ以上のことが伝わるという大昔からの教えであり
こういうところにこそ
気付きのキッカケが隠されているのであろう

 

第4,800号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー69

 

昔、
京都のある寺を訪れた時、
そこのご住職から、
禅の庭」の中に出てくる、
枯山水」の話を聞かせていただいたことがある。
この「枯山水」と呼ばれる庭つくりは、
主に岩と白砂で構成される。
真っ白に敷き詰められた白砂の上のどこに岩を配置するか?
その数は幾つは好ましいのか?
一つひとつの岩の大きさは?
白砂の表面の模様(砂紋)はどうするか?
多くの人はそういうことに思案を巡らせる。
もちろんそういうことも大切なことではあるが、
もっと大切なことが「枯山水」には存在している。
枯山水の構成の上で最も大切なことは、
それは・・・・・・・・・・・。
余白何もない空間)」だと。

禅の庭」に立つと、
その場の静けさや深み。
落ち着きや広がり。
こういうものは何も語りはしないが、
私たち一人ひとりの心の中に何かを伝えてくれる
これを果たしてくれるのが「余白」だ。
余白は空間表現において欠かすことのできない表現力
実は、
私達の人間関係においてもこの余白を忘れると
自分自身を安売りすることになり
相手からその本質」も見え難くなっていく

では人生における「余白」とは?
続きはまた明日のブログで!

第4,799号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー68

 

世の中には、
口先だけで語る輩も多くいる。
「会社のために貢献しよう」
「世の中の役立つ生き方をしよう」
「誰かのお役立ちになれるように生きよう」
人は自分のためにのみ行動する”という、
変えることのできない「原理原則」から見れば、
こういう耳に心地の良い言葉を並べる輩は信用してはならない。
こういうことを軽く口にする人を”口八丁手八丁”という。
しゃべることも上手く、
やることにもそつがなく世渡り上手という意味では、
誉め言葉にもなる。
人前で上手く話せることは、
その関係性を築く上でも、
仕事を円滑進める上でも大切なことではある。
思わず引き込まれてしまいそうな巧みな話ぶりは、
その人の大きな魅力の一つともいえる。
だから、
そうでない人から見れば、
上手く話せない”ことがコンプレックスにもなり、
自便喪失の原因にもなっていく。

しかしこういう言葉もある。
不立文字ふりゅうもんじ)」
教外別伝きょうげべつでん)」
これは、
本当に大切なことは文字や言葉にはならない」という意味。
仏教の経典の中に記されている文字や説法は数多くあるが、
大切なことは、
その文字や説法そのものではなく、
そこから自分自身が、
なにに気付き、
何を実践していくのかというところにという意味でもある。

 

 

愛4,798号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー67

 

柔軟心」という言葉ある。
これは柔らかなしなやかな心で生きなさいという禅語だが、
自分を断固貫く姿は、
勇ましく、
周囲から見るとカッコよく映るかもしれないが、
こういう姿勢は、
ともすると、
心の不安定化や、
硬直化にもつながっていってしまうことが多くある。
そうなると、
私達の「意識)」は視野を狭め
本来の自分を見失うことにもなっていきかねない
自分の行動に自分でブレーキをかけ、
ただ、
『どうも上手くいかない・・・・・』
『どうしたらいいのか?』と、
目の前に出ている「成果」に気付くことも少なくなり、
まったく身動きが取れない状態に追い込まれていく
これが理解出来れば、
上司が自分を理解してくれないから・・・・と、
上司を悪者にすることしかやれずに自分を見失って悩む部下
部下から、
総スカンを食らっていることにも気付けないでいる上司
そういう人達と重なる部分があることに気付けるはず。
柔軟心」を持って「流れ」に沿って生きたいものだ。

第4,797号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー66

 

物事は全て”力づく”ではどうにもならない。
これは世の中の「摂理」がそうさせている。
言い換えるなら、
それが私達が生きる世界の「流れ」というものだ。
生きる上で大切なことはこの「流れに任せることだ。
水は目の前に大きな岩が現れれば、
それには向かうことなくそれを避けて流れ、
わずかに方向を変えまたその先へと流れていく。
でも目指すところは誤ることはなく、
最後は大海へと流れ込んでいく。
”「流れに任せる”とは、
ただ流されるままになることとは違う
流れの速さと方向を見定め、
その上で、
むやみに「流れに逆らうことなく
自ら「確固たる自分としてその流れに乗っていく
”「流れに任せる”とはそういうことを言う。

第4,796号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー65

 

男は一歩外に出ると七人の敵がいる」という言葉があるが、
これはそれほど世の中というのは、
自分にとって、
試練の連続の場だということを比喩的にいったもの。
この言葉もまた解釈を誤ると、
周囲にやたらと敵を作りたがる(ご自分では意識していないが)になっていく。
そういう人の特徴は仕事も強引に進めようとする。
もちろん能力もそれなりにあるから、
多少の軋轢が生じてもモノともしないところがあり、
それがまた、
『自分は頑張っている!』という、
錯覚を生み出していることに気付けない。
こういう人の生み出すそうした軋みは、
いつしか自分の行く手を阻むものになっていく。
人の上に立つ人間は元来「孤独」ではあるが、

こうなると、
孤独」ではなく、
孤立”した自分を創り上げていくしかなくなる。
孤独」は時々、
自分を振り返る意味からも意識して作らなくてはならないが、
孤立になってはその役割さえも果たせなくなっていく
組織の管理職たるものは「孤独」になっても、
孤立してしまったら裸の王様同然の状態になるだけだ。

第4,795号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー64

 

人生では、
いろいろな人との関わり」を持って生きなくてはならない。
そして、
その関わる人、
一人ひとりが「十人十色でそれぞれに価値観を持っている
大切なことはまずそれを認識することだ。
仕事だって得意分野もあれば不得手な分野もある。
お互いが得意分野で力を発揮し合い、
不得手な分野は助け合っていくことが何より大切なこと。
これがやれれば、
仕事もそれぞれの役割が見えてきて、
生産性だってアップしていくはず。
ところがこういうことさえ、
身勝手な解釈で、
『俺はPCは得意だけど整理整頓は苦手だから・・・』と、
周りで上司はじめ、
全員が整理整頓に汗を流しているにも関わらず、
自分は平然と、
PCに向かったままカチカチとキーボード叩いているだけでは、
これはもう何も学習していない子供と同じだ。
こういう人にはしっかりとモノ申さなくてはならない。
こういう人はまず”他人に厳しく自分には甘い”。
仕事を進める上においてはこれではダメだ。
他人には寛容で自分には厳しく向き合う
これがビジネスの世界ではまず求められる。
江戸時代の儒学者の貝原益軒の言葉にこういうのがある。
聖人を持って我が身を正し聖人を持って人を正すべからず。
凡人を持って人を許し凡人を持って我が身を許すべからず
これを関係性の基準にしていけば怖いものはない。

 

第4,794号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー63

 

禅語には、
本来無一物ほんらいむいちもつ)」という言葉がある。
人は本来、
何一つ身に付けることも無くこの世に生まれ出てくる。
それが私達の「本来の姿」で、
執着するものなど何もないはずという意味だが、
いつの間にか、
私達は誰かと比べ、
誰かと競い合うように、
あれもこれもと欲するようになり、
一度手にしたものは、
どんなことがあっても手放せないという心理に惑わされていく。
今の地位を職を失いたくない。
いまの財産を減らしたくない。
現実問題として、
食を失ったら生活はどうなるのかという課題は残るが、
それはそうなった時に考えれば良いだけのこと。
仮に職を一時的に失ったとしても、
私達は誰もが、
そこからまた始める力を持ち合わせて生まれてきている。
そういう余分な執着が”失敗”を恐れさせ、
自分の目先の照準を狂わせていく。
元来、
この世に失敗という現象など存在していない
自分が諦めずにやり続けている間は
失敗という現象は浮かび上がっては来ない
もう駄目だ!』と諦め
自らさじを投げた時が失敗”だ。

 

第4,793号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー62

 

石橋を叩いても渡らない
こういう保身の塊のような生き方をしている人でも、
失敗”は常に着いてくる。
その人に「気付きのキッカケ」を与えようとして。
でも多くの場合、
そういう人は、
まず目の前に起こることのほとんどに文句を並べ立てる。
そして、
『失敗はしたくない』という意識がやがては、
その”失敗を隠そう”という意識に変化してしまう。
こうなると最悪だ。
特に組織の中では、
小さな失敗”を隠すと、
それは”大きな事故や事件”へとつながっていく危惧がある。
どんなケースでも、
失敗”をしてしまった時の最良の対応策は、
直ちに素直な気持ちで謝罪すること。
次に考えられる原因をすぐさま追究することだ。
上手く隠せたとしても、
誰にも知られずに糊塗したとしても、
失敗をしたという事実を消すことはできないのだから。

第4,792号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー61

 

人は自分が思い描くとおりに事を運ばせようともがく
それは、
私達の行動原点の全てが「」だから。
」を持つことは悪いことではないが、
そこに”我欲”が絡むと苦しみだけを生み出すようになっている。
我欲”とは、
「楽をしたい」
「思い通りにしたい」
「自分の意見だけを通したい」
「何もしないで手に入れたいものを手に入れたい」
「苦労はしたくない」
こういった、
自分に対して”甘え”を与えるものや、
身勝手な願い”と言われるようなものだ。
その究極的なものが、
死にたくはない,でも苦労しながら生きたくもない
死にたくもない生きたくもない”とは、
どういう状況の人を指すだろうか?
こういう行動基準の人って結構多くいる。
人生では「石橋を叩いて渡る」慎重さは必要だが、
石橋を叩いても渡らない”という人は、
そこに成長の糧は無く、
やがては生きる価値さえ失っていく。
人生は「前に進まない限り成長できない」ように出来ている。