<”HEP意識改革セミナー「ベーシック&アドバンス」”のご案内>

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第5,081号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー156-

 

よく『”現実”は厳しいから・・・』と口にする人がいるが、
現実”とは、
実際に目の前に現れる単なる現象”」であり、
現実現実でしかないと天風哲学では教えている。
自分が生きている」ということもこれは”現実”。
どんな人でも、
『いま自分は死んでいる』などと感じる人はいない。
生きている。
息をしている。
飯を食っている。
歩いている。
恋をしている。
怒っている。
悲しんでいる。

私はこの教えをこう理解している。
現実”であるから目の前のことは全て「事実」ではある。
事実」ではあるが・・・・、
その目の前のことが起きるに至っては、
何らかの自分の心構えや意識が根底に存在している
それに気付くことこそが、
その「事実」に隠れている「真実」というべきものであり、
本質」といわれるものであると。

 

第5,080号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー155-

 

私のセミナーに「コミットメント誓約)」というカリキュラムが出てくる。
これは自分が社会生活を送る中で、
まず自分自身が、
そこで「自分がやれること”」を、
私生活の中と、
職場内生活の中から、
一つづつ公言して、
それに向き合う「不断の心構え」の発表のようなもの。
天風哲学の中では、
この「不断の精神」は”普段の精神”と同じであると説いている。
どういうことかというなら、
普段”とは「日常」のことをいう。
その日常生活の中で、
自分自身が『やります!』とコミットメント誓約)した、
目の前の「小さなやれることの積み重ね」こそ、
大事を成す”という大きな結果をもたらしてくれるということ。
これは古い訓話の中にも、
行修は不断であれ」という言葉に表されており、
言い換えるなら、
行修とは「悟り」を開くための修行のことだが、
悟りを開くため”には、
特別なことをするのではなく、
日常の生活そのもの中で「小さなやれること”」を、
一つひとつ積み重ねていきなさいという意味。

第5,079号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー154-

 

天風哲学のなかに「情味の大切さ」というのがある。
この「情味」という言葉の意味は、
物のおもむきやおもしろみ。
人間らしいあたたかみや、
人間本来が持つ特有の能力といえるかもしれない。
自分自身の人生を、
真に生き甲斐のあるものにするためには、
この「情味」というものが不可欠になる。
天風哲学の中では、
さらに厳格な表現で、
”この「情味が欠如した人の人生は
いかに地位が高いところに昇りつめようが、
仮に大きな富を手に入れようが、
それらは所詮、
全てが無意義で、
空虚で荒寥こうりょうたるものになる”と断言している。
身近な社会生活の中で言うなら、
生き甲斐」とは、
給与とか、
働く環境とか、
福利厚生などといった物質的な事の中には存在せず、
働く人そのものの向き合い方在り方の中にこそ存在し得る

第5,078号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー153-

 

同情心”は無礼に値する。
よく「他人の身になって・・・・」と口にする方がいる。
病に悩む人、
運命に翻弄され苦しんでいる人、
身近なところでも、
上司に叱責され落ちこんでいる人や、
彼女(彼)と上手く関係性が築けずに悩んでいる人がいると、
その人の話を聞きながら、
理由の無い相槌」”を打つことで、
何か人としての、
お互いの交わりに対する”義務感的行為”で向き合っている人。
こういう人は、
そういうことが「礼儀だと勘違いしている人といえる。
こういう行為は「礼儀」どころか、
逆に”毒汁”を浴びせかけているのと変わりはない。
関係性を築く中で大切なことは、
本質」を外すことなく相手の話を聞くことから始まる。
解り易い事例で言うなら、
遅刻をして上司に強い口調で叱責され落ちこんでいる人には、
『酷いよねぇ~あんな言い方しなくても・・・・』と、
同情”することではなく、
自分の「真心」から、
それがなぜ起きたのか?”という「本質に気付くべく、
その人に諭し目を醒まさせることこそが礼儀」である。

第5,077号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー152-

 

本能心”と「理性心」。
同じ「」でもこの違いはどこに在るのか?
これはどちらが良くて、
どちらがダメというお話ではない。
本能心”とは、
私達の肉体生命の生存を確保するために存在している。
つまりは、
人が動物的方面での生存と生活に必要な作用を、
この「」は司っている。
代表的なものを挙げるとするなら、
食欲、睡眠欲、性欲の他、
私達の肉体的な欲求から発生する各種の欲望行為。
また”感覚念”から生まれるもの、
闘争心とか競争心、
復讐心、憎悪心、猜疑心に嫉妬心などで、
これらは、
動物が本来持つ特有の”低級心情”と言われている。
対して「理性心」とは、
事物事象に対する推理推考を司る」をいう。
先に述べたが、
どちらが良くてどちらが悪いという話ではない。
本能心”と「理性心のバランスこそが大切であり、
理性心」が”本能心”を統御する力は兼ね備えてはいない。

第5,076号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー151-

 

多くの人は「幸福」を手にしようと、
富や地位や権力に情報をと、
多くの方向に意識を獲られがちになる。
そうしたことも、
幸福」を手にするための一助にはなるかもしれないが、
何度も言うがそういうものはあくまでも、
相対的”で「絶対的」なものではない。
もし、
いま自分が、
わずかな富と、
身の丈に見合った地位を手にしているなら、
その”相対的”なものに「絶対的要素を加味することだ。
この「絶対的要素」というのが、
私達が「人として生きる上での信念”」を指している。
企業組織で言うなら「企業理念」のごときもの。

大きい小さい。
有名無名は別として、
世の中で、
真の成功者と言われる人や組織には、
間違いなくこれが燦然と輝いて在る

言い換えるなら、
人も組織もやり方の前に在り方」ということ。

 

第5,075号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー150-

 

天風哲学で説かれてこれも大切なこと。
それが・・・・「”円転滑脱な生き方」をする。

この言葉を直訳するとこうなる。
円転」は丸く回る意で角立てずに滞りなく進むこと。
滑脱」はすべりぬける意味でなめらかで自在に変化すること。
つまり、
円転滑脱」とは、
ものごとが円滑に運んでとどこらない様”をさしている。

これをもう少し解り易く言うと・・・・、
無理せず
頑張らず
他人と競わず
先に思い描く目的だけを追い求めずに
いま目の前のやれること」”だけに全力集中する

やること」だけに全力集中するのだから、
それなら間違いなく「円転滑脱」で進む。
誰かの為に役立とうとか、
周囲に元気を与えようとか、
そういう”自我”を胸に抱かないことだ。
そうすれば余分な力も肩に入らず継続性も高められる。
ましてや今のような時代を生き抜くには、
より一層、
エネルギー)」の使い方を
無駄なく正しく制御させないとならない

 

第5,074号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー149-

 

天風哲学でいう「積極的精神」を育むには、
自制自働」を心掛けなければならない。
特に自分自身の、
健康建設の要諦」として次の2つが必要と説かれている。

これを私はこう解釈して挑んでいる。
肉体内部の生活力の積極化
これは、
私達の日々の食生活に対する意識の大切さを教えてくれている。食事というものは”1日3食と定められているわけではない
まずはそれを勘違いしないことから。
これは以前の投稿でもお伝えしたが、
食欲”というものは、
健康だから生まれるのではない。
あくまでも人間の持つ”煩悩”の一つにすぎない。
従って、
食欲があるから食する”では肉体が悲鳴を上げる。
食事は「空腹を感じたら摂取すればよい
もう一つは、
肉体の対外抵抗力の積極化
これはまさに「行動」そのものを示している。
苦手なことも、
出来そうにないと感じることも、
全ては「やる!」という意識から始まる

自制自働」とはそういう意識のことを指していると考える。

 

第5,073号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー148-

 

峻厳しゅんげんなる人生」を送ろう。
難しい言葉であるが、
峻厳なる人生」とは、
いかなるを以ってしても、
いかなる権力を以ってしても、
さらには、
いかなる名誉地位を以ってしても、
到底、
完全には手に入れることのできない絶対的なもの
ましてや、
何か事が起こると、
それを環境や他人のせいにし、
自分には微塵も落ち度が無いかのような意識の持ち主や、
自分が”やりたく言い訳”を、
さも「やれない正当な理由”」の如く屁理屈を並べる人
または、
組織内の地位を前面に出して、
空威張りしたり、
自分の力を誇示してマウントしてくる人
過去の実績を振りかざし、
さも、
自分は凄いんだ!」と必要以上に大きく見せようとする人
こういう輩の人達には、
この「峻厳なる人生」を迎えることはまず難しい。

第5,072号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー147-

 

私達が身の回りに起きることから、
情報”を得るため備わっているのが「感覚器官」というものだ。
それは次の5つから成り立っている。
(見る)
(聞く)
(触る)
(嗅ぐ)
(食する
いわゆる「五感」という、
ほとんどの人が生まれながらに備わっている機能だが、
これも、
その「受け止め方」で、
私達の「)」を強くもし弱くもする
外界の”情報”を正しく入手するには、
自分自身の「感覚器官」そのものを、

正しく機能させなくてはならない。

ここでいう「正しく機能」とは、
自分の好き嫌いといった感情
過去の出来事から思い込みで決めつけているような受け止め方耳に心地よい言葉や印象に惑わされる
こういうことを基準にした「受け止め方」ではなく、
まずは、
見たもの
聞こえたもの
嗅いだもの
触れたもの
食したものを、
原理原則」の中で、
しっかりと「受け止めることが大切なポインとなる。