第5,095号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー170-

 

天風哲学の学びの中に「不偏愛」という言葉が出てくる。
この言葉は、
何物も憎まず、
公平無私の純正なる愛情を以って、
人にもモノにも、
ありとあらゆるいっさいに相接すること”という意味だが、
とかく私達は、
自分が気に入った相手、
自分に都合の良い相手には笑みを振りまき、
そうでない相手はどこかで排除しようともがく。
そして、
自分のことはさておいて、
他人”や”環境”のせいにして自己を正当化しようと諮りたがる。
この「不偏愛」とは、
単に、
みんなに優しくしろとかそういうことを伝えているのではなく、
自分自身の心の中に、
無私無我から離れていくような偏りが在ってはならにということを教えてくれている。

 

第5,094号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー169-

 

無私無我」で生きることこそが大切。
天風哲学の学びの中でも高い基準が求められる言葉。
今の時代はモノや情報に溢れ、
一般的に生活をするのには困らないほとんどのものは手に入れられる(別格の欲をかく人は別)。
こういう時代に活きる私達は、
とかく”自我のトラップにかかり易い。
天風先生は私達が活きる上での真の生活基盤は、
そういうところには無いと説かれている。
人生の根本哲理は自我を本意としない生活の中にある」と。
言葉を変えると、
人は「無私無我」の生活を本意として生きてこそ、
そこに人として生きる本当の意味が在ると。
多くの人は、
幸福とか、
健康とか、
長寿とかを良き運命と思い望むが、
無私無我」の生活さえ心がけていけば、
そういうことは願わなくても必然的に恵まれていく・・・・と。
そしてこれは、
この世ある限りいささかも変わることのない、
私たち一人ひとりに賦与されている宇宙真理であると。
難しい表現が続いたが、
解り易く言うなら、
生まれ出でてこられたことを両親に感謝し、
日々の生活に感謝し、
働けることに感謝し、
自分の足元を見据えて、
自分のやれることを、
ただただ愚直に懸命に向き合って生きなさいということ。

第5,093号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー168-

 

自分自身の「意志」ほど自分の人生を左右するものはない。
したがって、
この「意志」のの煥発が不十分だと、
目の前の”出来事現象)”や、
目の前に現れる”他人”の言動によって、
自分の「感情)」が揺さぶられ、
自分の「」でありながら、
自分自身でその操縦が完全に不可能な状態へと導くことになる。
『あの人がいるから会社に行きたくない』
『あの人とは一緒にやっていけない』
『あんな仕事はしたくない』
世の中に、
自分の好きなことを、
自分の好きなようにやらせてくれる環境など、
そこで”対価”をいただくような場には一つも存在していない。
辛く苦しいこと。
耐え忍ばなくてはならないこと。
理不尽と感じるようなことなど、
いずれも「二律背反の中に在るからこそ対価が頂ける
自分の「」は自分が使いこなすもので、
決して、
その「」に使わるようなことはあってはならない。

第5,092号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー167-

 

人生を生きていく上で、
日々の生活に追われる負担とか、
犠牲という切り口からのみ考えると、
私達が活きる人生ほど苦しく辛く、
悩ましいものは無いように感じてしまう。
人生は、
もっともっと「立体的に受け止めて生きていくことが肝要だ。
そうすれば自ずと、
生活を送る上でのその範囲の広さと同時に、
日々目にする”出来事現象)”の一つひとつが、
まるで精巧な織物のように、
極めて複雑な色模様と組み合わせから、
私達に、
その”出来事現象)”の表面的な事だけに留まらず、
そこから、
何かを気付かせよう」としていることが感じられるはず。
そして、
今は目の前のことが辛く苦しく感じられることも、
実はそれが、
長い人生の中で相当素晴らしく、
価値あるモノであることを見出していることに気付ける。

第5,091号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー166-

 

ことわざに”人のふり見て我がふり直せ”というのがある。
他人の言葉や行動行為をやたら批判する人は、
他人の振り”に対して、
我がふり」を正しく照合して是正しようとはしない。
ただあしざまにそれを批判するだけで、
そうしていることが
自分が何か事をやっているという勘違いの中で生きてしまう。
だから、
相手の持つ良いところも、
相手から与えられる自分への「気付き」にも、
気付くことが出来ず、
自分自身が成長すべく価値あるモノを、
自分の中に感得できなくなる。
これは生きていく上で凄く悲しいことだが、
そういう人は、
そういうことにも”気付けないまま”生きていくことになる。
人は完全無欠な完璧な人など存在しない。
自分も他人もみな不完全な状態で学び合って生きている。
自分にとって”他人”は、
時に、
悪の見本でもあり善の手本ともなる。
どちらにしていくかは自分自身の受け止め方だ。

第5,090号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー165-

 

天風哲学の教えの中に「触覚作用の抑制」というものがある。
私達は、
単に季節の変わり目に寒暑の差に揺さぶられ、
寒さ厳しい冬には肩をすぼめ小さくなり、
暑さ厳しき夏には、
額に汗しながら暑さをぼやきぎらつく天を仰ぐ。
暑さや寒さを感じることは人間の持つ能力の一つで、
それ自体が悪いことではないが、
それを”言い訳”にして、
自らの行動を遅らせるようでは問題がある。
これを自らの「意志力」である程度まで抑制する。
この「意志力」そのものを「触覚作用の抑制」と呼んでいる。
古往今来、
偉人と呼ばれるような人や、
修行を重ねた賢者がみだりに寒暑を気にかけ口にしたり、
病に侵されて、
その不安の中で弱音を吐くようなことが少ないのは、
この「意志力」というものが積極的に働いて、
心機転換がなされているからである。

第5,089号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー164-

 

成功」の反対は”失敗”に非ず。
これも私の大好きな言葉の一つ。
20年まえに初めての起業に失敗し大きな負債を抱えた時、
この言葉を天風哲学から学び得た。
例え大きな事業に失敗したとしても、
その時に嘆き悲しみ、
途方に暮れて・・・・・、
『あぁ~俺は運が無い』
『俺には能力が無い』と嘆くのではなく、
事にあたる上においてその心構えなり方法なりに、
どこか大きな誤りがあったことをこれは自分に教えてくれている
さらには、
このまま人生が終わってしまってこも仕方がないようなコトなのにまだを保ち活かせてくれている”・・・・と。
そして、
活かしておいてくださればまだ盛り返すチャンスはある」。
ここで私自身もまた、
そのチャンスを作り生かすも殺すも今この瞬間の自分次第』と自覚させていただいた。

成功」の反対は”失敗”に非ず。
そう!
成功」の反対は”失敗”ではなくその先、
何もしないで諦めること”。

 

第5,088号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー163-

 

理性」という言葉は、
私達が物事を判断する時に尊重する意識の向き合い方だが、
これを”一つの理性”にあまりに尊重しすぎると、
物事の「本質」は全く別の方向性に向かっていくことが多い。
それは、
理性」というものを正しく理解していない証。
理性」とは単に”常識”ではなく「道理」のことで、
自分自身の「心性意識の発達」に伴って、
発達し変化する理智から発生するもので、
そこには昨日より明日という変化が生まれても来る。
従って私達が、
一つの理性”を無上のものとして、
そのことだけにを尊重しすぎるのは、
決して賢いことではないということ。
大切なことは、
今日よりも明日、
明日よりも明後日と、
日々、
経験の中で”失敗”を繰り返しながら、
自分自身が持つ「理性そのもの育んでいくことになる。

第5,087号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー162-

 

人生には”やり方”を正しく用いてもままならぬことが多くある。
これは”生活人生”と「生存人生」の違いにある。
生活人生”とは、
この肉体や生活環境のみに偏って生きることをいう。
それは”幸せのための条件集め”が中心になっていく。
お金とかモノとか、
地位とか名誉とか、
こういうものは「幸せ条件」の一つではあるが、
決して「幸せ」そのものとはいえない。
対して「生存人生」とは、
人としての尊厳の元に、
その「在り方」を追求して生きていく意識。
いかなる方法手段をもってしても、
そこには”相対的効果”は手に入れられても、
自分自身の人生における、
絶対的効果」を手に入れることは難しい。
それは必然の上に授かった自分の「生命力が委縮減退し、
目に見えること、
耳に聞こえることだけに振り回されているから、
努力いたずらに空しく効果極めて少なし”という結果しか生まれてこない。

 

第5,086号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー161-

 

私達の「」というものは、
見るもの聴くもの触るものに左右されやすい。
それがまた私達人間の良いところでもああるのだが、
これが”雑念”となるとそこに「迷い」を誘い込んでいく。
天風哲学でいう「心身統一法」には
この”雑念妄念排除”が欠かせない。
『○○になったどうしよう?』
『もし・・・になったら・・・・』と、
まだ起きてもいないことまで心配するのは、
いまここに在る「命の力」を削ぎ落していく。
人生に起きた過去の”出来事現象)”そのものを変えることなど誰にもできない。
未来に起こり得るだろうと推測予想することとて、
「間違いなくこうなる」という保証などどこにも無い。
私達に在るのは「常に今この瞬間」しかないのだ。
目の前の、
この瞬間瞬間の積み重ね」こそが「未来に続く礎」になる。
雑念妄想”を可能な限り捨てて、
目の前のことに集中して活きることだ。