第5,014号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー90-

 

この世の中の出来事現象)には必ず「原因」が在る。
この世のありとあらゆる事物の中に、
原因の無い事物”など存在しない。
私達は、
目の前の出来事現象)と向き合うと、
自分が思い描くとおりなら喜び、
自分と同じ意見や行動をする人には寄り添い、
逆に、
自分の思い通りにならないことが起こったり、
自分の目の前に、
自分の意見と異なる人や、
自分を理解してくれない人が現れると、
まずすること・・・・それは、
その”自分が嫌だと感じる現象だけを変えようとする
嫌な上司にきつく言われると、
『言い方を変えてくれれば・・・・』
自分を理解してくれない相手が現れると、
『あの人は解っっていない!』・・・・と、
自分よりもまず”相手や環境を変えようとする”。
こんな私達に天風先生はこう教えてくださっている。
この世の中の事物の全てに原因在り”。
この原理原則絶対真理の中で
自分に指先を向けて検証してみると
そこからは自分自身の不足な部分が見えてくる
それは自分の信念だったか
感謝だったのか
勇気か努力か
いずれにしても
自分の意識や姿勢の中の不足がもたらしている』。

結局は「自分」なんだよね。

 

第5,013号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー89-

 

よく”眠れない”という人がいるが、
そんな時に、
『明日は早いから早く寝なきゃ!』と、
無理やり眠ようとすることは「自然法則に反する
いつも言っているが、
私達の「」は、
地球や野々草花と同じこの宇宙のエネルギーで創られている
つまり、
人もまた「自然界の産物」でしかないということ。
睡眠もまた、
生命の要求する時間を睡眠するというのが
最も順応した在り方
眠れない時は無理に寝ようとせずに、
ゆうゆうたる気持ちで”眠くなるまで待つ”ことが肝要。
さらに言うなら”眠れない人”は、
昼間に可能な限り「積極的意識」をもって行動すること。
何もせずに安眠だけを求めるのはあまりにも虫が良すぎる

第5,012号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー88-

 

消極的観念自分の信念を殺してしまう
信念」というのは決して結果を望むことは無い
対象に対して同じように強い思いがあったとしても、
そして、
自分の中に確信めいたものがあったとしても、
言い換えるなら、
この確信があるからこそ、
結果はどっちでもいい全ては必然と最終的に思える
対して、
執着”は自分を信じられないから湧き出してくる。
不安”と”執着”はセットだ。
試験に受からなかったらどうしよう?
そうなると、
まだ試験を受けてもいないのに、
次に受けるところのことばかりを考え出し、
彼に嫌われたらどうしよう。
そうなるとまだ起きてもいない未来だけを思い描き、
大切な人が死んだらどうしよう?
そうなると”過去”ばかりを追うようになる。

天風先生は「信念」についてこう説かれている。
私達が活きられているのは
誰にでも多少なりの信念があるからだ
どうすればその信念を確立させ強くさせられるか
それには信念を渙発させよ」と・・・・。

渙発」とは広く深く知らしめることだが、
解り易く言うなら、
自分の持つ信念
いつも口にして声に出し
肉体に隅々にまでいきわたるくらい
強い意志力をもっていけということ

第5,011号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー87-

 

天風哲学の中に「第一義的な活き方」という言葉がある。
第一義的な活き方
言葉だけを見ると、
なんとも難しく意味が良く解らなかったが、
天風先生の解説を読むと、
どんな場合にも
例えば
自分の身に病が在ろうが無かろうが
運命が良かろうが悪かろうが
その他の人生事情のいかんに関わらず
いつも一切にして
それに向き合う自分自身の心の力
苦を楽しむの境涯に活きる活き方をするにあり』とあるが、
これでもまだ難しい。

これを私なりに解釈するなら、
目の前に起きたことは困難苦難もすべては必然」。
全ては自分に何かを教えてくれようとしている現象に過ぎない
だったら
その苦しみも辛さも
素直な気持ちで受け入れて
自省のなかで感謝を振り返り
その与えられた条件の中でやれることだけに集中する

人間関係も仕事での諸条件もみんなそうだ。
嫌な奴がいるからと愚痴を言って逃げ出すか?
その中で「やれること」と向き合っていくか?
その差が自分自身に返って来るだけのこと・・・・。
そこから逃げていく人間は、
一時的に、
嫌な奴”と離れられても、
必ずまた同じような人間が目の前にやって来る。
自分自身が「気付き」を手にするまで・・・・。

こう受け止め出した頃から人生は大きく変わっていった。

第5,010号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー86-

 

私達には情報を集める術は「5つ」しかない。
見る
聴く
触る
嗅ぐ
食する
これが「五感」と呼ばれる私達の持つ「感覚器官」だ。
そして、
そこから吸収された情報は全て、
中枢神経系を経てに送り込まれ蓄積されていく
この「感覚器官」を正常に稼働させていくためには、
私達の「意志力」が必要になる。
仕事でもスポーツでも、
目の前のことに向き合う時に、
よく『頑張ります!』という人が多くいるが、
いったい何をどう頑張るというのだ?
そんなあやふやな意志」ではなく、
やる!』という強い意志」を持って向き合うこと。
頑張ります」とか、
やれたら良いと思います
こういう言葉を天風哲学では”何気なく行う姿勢”と称し、
有意注意力に欠けた上面な意志の表れと言われている。

有意注意力
これを私のセミナーでは「意志力」と呼んでいる。

第5,009号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー85-

 

日常の生活の振り返ってみると、
楽しいこともあれば苦しく辛い日もある。
でも、
空しい日”だけは作ってはならない。
空しい日”とは、
好きとか嫌いだけで判断して”何もしない日”。
つまり自分から逃げている日だ
そしてまだある。
これがなかなか気付けない。
それは、
他人を憎んだり妬んだり批判したり。
目の前の”困難苦難”に振り回されて、
『どうしよう?どうしよう?』と口に出すだけで何もしない。
こんな”嫌な気持ち”を自分で勝手に作り出している。
私達の「」はこの壮大な宇宙の」。
」はその「」の存在場所。
それを一時の”感情”だけで身勝手に振り回している。
それは自分の「」に対する義務を怠っているようなもの。
自分で勝手に、
嫌な方面、
嫌な切り口から物事や人をを見れば、
世の中に明るさとか幸せ感など無くなってしまう。
目の前の出来事を”暗く”感じたら、
まずは自分の「心の窓を開いて
素直な日差しを差し入れることだ。

 

第5,008号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー84-

 

自分の人生は自分自身で創り上げていくしかない。
『みんながやる(やらない)から・・・・』
『誰かがこう言っていたから・・・・』
『社長の言うことだから・・・・・・』
私達は生まれてから死ぬまでずっと、
組織」と中でその一員として生きて行かなくてはならない。
そこで決められたルールや決め事は順守しなくてはならないが、
それが「人としての在り方”」や
社会に反する非合法な行いだとしたら、
そんな時には、
毅然とした態度でそれに向き合わなくてはならない。
”他力依存や、
対岸の火事”的な意識で生きていると、
自己自身からの実現性」はあらゆるところで発揮されえない。

自己を創るのものは自己なり
自分の人生は、
自分自身に向けた、
自省自制自責の中でのみ創り上げられていく
これは真理そのものであり侵すべきも無い絶対的なものである

 

第5,007号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー83-

 

私達は日常生活や仕事の中で、
得意なこともあれば苦手なこともある。
大切なことは、
それを選り好みして、
苦手なことを避けていくことではない。
そういう意識でいると、
何をやっても“苦痛”しか残らなくなる。
最も大切なことは、
ハッキリとした気持ち意識をもってやる」ことだ。
そして「やる」と決めたらトコトン「やる」。
そんな時間の中から、
嫌だな
苦手だな』と思っていたことにも、
小さな興味やりがいが浮かび上がって来る。
だからどんなに『嫌だなぁ~』と感じるようなことでも、
必ず、
気持ち意識)」を明朗にして応接する習慣を付けていく
決して、
嫌々とか、
何気なくといった気持ち意識)では向き合ってはならない。

これを私のセミナーっでは「意志力」と呼び、
天風哲学では「有意注意力」と呼んでいる。

第5,006号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー82-

 

天風先生はいつも語りかけるように指示してくれる。
『君ねぇ~そんなに過去のことで悩んだり、
他人を妬んだり憎んだり恐れたり悲しんだりして、
気持ちが良いかい?
良いはずなかろう。
なぜそんなにしてまで自分の嫌な気持を、
大切な自分の””に与えるんだ?
もっと喜ばせてあげなさい』・・・・と。
そして、
それが「自分の心に対する生きる上での自分の義務”だと。
仰る通り。
何かに悩んだり、
誰かを妬んだり憎んだり、
恐れたりしている時って、
自分自身でもそれが解るほど”嫌な気持ち”になる。
何事も”暗い方”から物事と向き合えば「明るいこと」になど出逢えるはずがない。
それは自分の「暗さ」がそうさせている。
『もっと「素直」な気持ちになって、
自分の「心の窓を開けてみなさい光が差し込んでくるから・・・』。
苦手だなぁ~と感じることも
それは自分で勝手にそう思い込んでいるだけで、
まだやってもいないのにそんな言葉を口にするのは
心の窓を固く閉ざしている証だとも仰っている。

第5,005号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」       ー81-

 

天風哲学の教えの中に、
ソリロキズムつぶやきの自己暗示法」というのがある。
いつも言っているが、
私達は”感情の動物”であるがゆえに、
目の前の”出来事現象)”を、
とかくこの「感情」だけで受け止め易くなる。
これは決して間違いなわけではないが、
この「感情好きか嫌いか?)」だけで判断すると、
何事においても言えることだが、
そこから導き出される「思考考え方)」もまた、
感情」に偏り易くなっていき、
さらにそこから導き出される「行動」もそれに付随ていく危険性が生まれる。
この「ソリロキズムつぶやきの自己暗示法」というのは、
そんな「自己感情を客観視するのに役立つ
例えば、
怒りを感じた時など、
『なんで俺は怒っているのか?』と、
自分で自分に問いかけるように心の中で「つぶやいてみる」。
この一瞬の「つぶやき」が、
感情」にちょっとした風を送ってくれるかのように、
『なんだぁ~些細なことだったんだぁ~』と、
新たな「気付き」をくれることが多くある。