第4,770号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー39

 

修行僧の経験は、
天井の穴から差し込む月あかりが、
その「受け止め方」を変えてはくれたが、
あばら家でやっと寒さを凌いでいる”という、
厳しい状況にあることに何の変わりも無い。
私達の日常生活の中でも、
こういうことはいくらでも経験しているはず。
だが、
その”悪状況”だけを何とか変えようとして、
私達はもがき苦しんではいないだろうか?
それも、
自分の「受け止め方」を変えるのではなく、
あの酷い上司が変わりさえすれば・・・
この厳しい環境さえ変われば・・・・」と、
他人や、
環境だけをやり玉に挙げて
自分自身に指先を向けることをしている人は、
いったいどれだけいるだろうか?
私達の「意志力」とは、
こういうことに対しての、
自分自身の「向き合い方能力そのものを示している
目の前の”心配事”を気に病む前に、
自分自身の「意志力」というものを振り返ってみることだ。

第4,769号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー38

 

ある僧侶が修行の旅の途中で体調を崩し、
誰も住んではいない酷いあばら家で一夜を超すことになった。
天井は穴だらけで、
そこから落ち葉が舞い込み、
寒さをしのぐために、
床板をはがして燃やさなくてはならない。
こんな状況なら、
修行僧であっても心は落ち込んでいって”当たり前”。
身近な雑草や木の実で飢えをしのぎ、
横になって体を休め始めたその時、
穴の開いた天井の隙間から、
煌々と月あかりが差し込んできた。
その光は次第に、
僧侶の足元から、
全身を包み込むように移動していることに気付く。
この時、
この僧侶は、
『なんと素晴らしい光景だろうか?
この場所、この時間、
この状態でなかったら、
こういう”感情”に包み込まれることは無かったろうなぁ~』と、
しみじみと、
人生の必然の妙技」に、
暖かさえ感じながら包み込まれていったという。
これは修行僧だから感じられたことではない。
感情”とは、
自分の好き嫌いの中に存在すものではなく
自分自身の心の持ち方の中に存在しているとういことを、
私達に教えてくれている。

 

第4,768号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー37

 

仏教用語の中に「増上慢」という言葉があるが、
これは、
私達が、
感情に振り回されている時の一つの姿を現している言葉。
私達には、
感情”と同時にもう一つ素晴らしいものが備えられている。
それが「意志気意識)」というものだ。

つまり、
私達人間は、
他の生き物と違って、
感情の生き物”であると同時に、
意志気意識の生き物」でもあるといわれている。
言い換えるなら、
どんなに”感情”を揺さぶられるような”出来事現象)”が、
目の前に起きたとしても、
その時に、
それに流されることなく、
一呼吸大きく息を吸い込んで、
『チョッと待てよ!』と、
自分の「意志力」によって、
その現象の「受け止め方」を、
いま一度、
じっくりと見直すことが可能であるということ。
受け止め方」を変えることがやれれば、
その次に待ち構える「考え方もまた変える可能が生まれ出す
受け止め方」と「考え方が変われば・・・・、
そう
行動そのもの変えられるということになる

第4,768号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー36

 

心配事”のほとんどは、
その「受け止め方」で決まってくる。
私達人間は”感情の生き物”と言われるだけに、
目の前に起こる”出来事現象)”の「受け止め方」のほとんどがこの”感情”によって左右される。
ただ、
勘違いして欲しくないのは、
この”感情”そのものがいけないという話をしているのではない。
ただ、
その”自分の感情”を、
時々、
客観視して見返してみることが大切になるという話だ。
ただ、
怒りや苛立ちから受け止めていないか?
いつもだったらサラッと流せるような相手の言葉も、
今日はなぜか引っかかって、
気分が悪い”というようなことは誰にでもよくあること。
健康状態が平常時と異なれば、
誰でもが”になる”。
になる”とは、
自分の心の中の「意志に変化を与えている状態
こういう時が“”にいる状態だとすれば、
逆に「頂き」にいる時は、
自分の能力を過信しすぎ
思いあがって他人を見下すような言動に走る
これが”感情だけを基準にした受け止め方」といえる。

ではこれをどうすればよいのだろうか?
続きは明日のブログで。

 

第4,767号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー35

 

禅の教えの中に「七走一坐」という言葉がある。
意味は文字が示す通り、
「七回走ったら一度その場に座り込んでみてごらん」
こういう意味の言葉だが、
止まり座り込む」とは、
人生における「自省」の行動を指している。
我武者羅に、
自分が追い求めることだけを追い求め、
走り続けていることが、
自分はやっていることと思い込んではいないだろうか
先だけを追い求めていれば、
心理からすれば、
早くその結果だけを追い求めるようになるのもまた道理だ。
でも人生は”100戦100勝“とはいかないのが常。
良くて「100戦1勝」だが良いところだ。
でもこの「1勝」は、
後々にも生かされる正に「価値ある1勝」となる。
そのためには、
目的目標関係を知ること。
目的」とは、
一つひとつの”目標の積み重ね”によって成し得るもので、
焦ったところで、
直ぐに得られるものではない。
特に、
失敗や躓きを感じた時などは、
そのまま走り続けるのではなく、
いったん「坐して」、
自省の中に我が身を置いて見返してみることだ。

第4,766号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー34

 

私達の多くは、
当たり前のことほど感謝の意識が薄れがち”になっていく。
その中でも、
最も象徴的なのが「両親の存在だ。
親がいるのは”当たり前”。
親が子どのことで心を砕くのは”当たり前”。
子供を守り子供に手を貸すのは”当たり前”。
仕事も同じだ。
仕事をやれているのが”当たり前”。
働ける場があるのは”当たり前”。
給与をもらうのは”当たり前”。
多くの人がどこかでそんなふうに思い込んでしまっている。
この”当たり前のこと”が、
どれほど「有難いこと」なのか?
それに気付けるのは、
多くの場合、
それを”失ってから”という人がほとんどだろう。
私達の心に生み出される”心配事”のほとんどが、
実は、
こういう”当たり前のこと”を、
有難いことと気付けていないことが原因で起きている

あるべきものが あるべきところに あるべきように ある
これが”当たり前”と言われるものの姿そのものだが、
この”当たり前”のことに、
どれほど自分が支えられ、
癒され、
励まされ、
勇気づけられているか?
いま一度、
ここで振り返ってみると、
心の中に潜む”心配事”は、
全ては「自分への課題として変化していくかもしれない

第4,765号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー33

 

いまの時代に求められるリーダーは、
決して、
肩書の上”に立ってはいけない。
それは、
上司と部下の関係を、
関係性」というレベルまで構築していくには、
お互いの共通点を共有化するところからしか始まらないから。
”部長と部下”
”常務と部長”
”社長と社員”
これらはどれも、
記号記号」の立ち位置関係を表しているに過ぎない
では、
この「記号記号」の”共通点”はなにか?
それは「」という以外には存在していない。
この”共通の位置関係”で、
まずはしっかりと「関係性」を築けない人間に、
組織内の「リーダー」という役割は果たすことは難しい。
職場の「人間関係」は、
上手くやろう
仲良くやろう”としないことだ。
お互いが、
お互いの間に流れる”共通点”をしっかりと認識して、
それぞれの目の前のことを確実にやることしかないのだ。
部下に出す「指示の出し方」など、
その典型的な事例の一つで、
部下が理解しやすいように指示を出しているか
部下が質問をしやすいような環境を醸し出しているか
こういうことを愚直に取組んでいれば、
職場の「人間関係」の行き違いなどまずなくなるはずだ。

第4,764号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー32

 

物事に”固執すると、
すればするほど余計なものを背負うことになる。
例えば、
企業組織の中で取締役とかいう立場になると、
部下の前に出て話をする時に、
『自分は取締役だからそれらしい話をしなくては・・・・』
こういう心理状態に陥る人が非常に多くいるが、
いつも言っているように、
肩書”などというものは、
その人に付けられたただの記号のようなもので、
それ自体にどんな価値があるわけでもない。
なのに・・・、
勝手にそう思い込むと、
自分の心根の中に存在する「想い」とか「情熱」を置き忘れ、
記号が発信する電子音のような言葉だけが口から出て、
周りの人には何一つ伝わらずに終わることがほとんどだ。
毎日の朝礼や会議の席上。
会食会などでの一言でも、
自分というオリジナリティーを忘れて
肩書の上に乗っかって話をしようとすればするほど
周囲の人の心は離れていく
そしてそれはいつしか、
自分自身に、
なんで周りは俺のことを理解してくれないのだろうか?』という”悩み”にまで発展していくことになる。
そりゃぁ~そうだ。
だって、
自分じゃない自分を演じて話をしているのだから・・・。

第4,763号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー31

 

人間社会は”複雑な人間関係”で創られている。
そして自分はその一人を成している。
私達の”心配事”の99%は、
この「人間関係」の中に埋もれているといっても過言ではない。
職場の、
地域社会の、
学校の、
友達関係の、
そして家族や兄弟関係や親族関係の中で、
この重層的な関係の中で良いも悪いも私達は生かされている。
その関係の糸が、
時に縺れだし、
心を覆って不安や悩みを生み出していく。
『あの上司はいつも上から目線の物言いで嫌になる』
『あいつは口では耳に心地よい言葉ばかりを並べているが信用成らない』
『お隣の旦那は最近は挨拶もろくに返さなくなった』
こういう小さなことでも、
いったん”マイナスの思い”に囚われると、
それをなかなか払拭できないのもまた、
私達人間の特性のようなものだ。
しかし、
その縺れを辿ってみると・・・・、
始まりはどれも些細なことばかりであることに気付く。
でも、
その些細なことでかけ始めた”色眼鏡”をなかなか外せない。
人間には「一切衆生 悉く仏性有り」といわれるように、
どんな人にも隠れた良いものを持ち合わせているはずだが、
この”色眼鏡”をまずは外さないと、
相手の「仏性」を見分けることは叶わなくなる。
色眼鏡”をかけた先に見えるその人の姿は、
その人への、
光の差し込みが途切れた時の
ある一面に過ぎない

第4,762号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「心配事は起きてから対応しても遅くない」   ー30

 

自分ではどうにもならないコト
そういうこととはいったいどう向き合えばよいのか
マネジメントが全く苦手な身勝手な上司。
社会人になっても挨拶一つ満足にやれない部下。
何度も同じことを言われても改善しようとしない人。
そういう人とは・・・・、
結論からいうなら「放っておくこと」。
言い換えるなら、
あるがままを受け入れていく」ことだ。
そんな上司がいたら・・・・、
反面教師が降りてきた
こんな問題管理職は金を出しても来てはくれないかも?』
俺がこの人の立場になったらこういうことをしなければいいのだぁ~。
まだ取締役になってもいない俺が、
もう目の前に最高の生きた反マニュアルがある
こんなふうに受け止めれば、
その最低上司の一挙手一投足が反マニュアルになっていく。
『解りますけどぉ~・・・難しいですよぉ~』では、
あなたも将来は目の前の最低上司のコピーになっていくだけだ。
挨拶も満足にやれない部下”は・・・・。
何度か指摘してあげても変わらないなら、
そういうのはもう放置しておくこと。
但し、
こちらも、
上司という立場以上の接し方で向き合うことを忘れないコト。
上司という立場以上・・・・・とは?
取引先の相手とか、
まったく無関係な、
ただ”自分の部下という位置に紛れ込んでいる人”。
それだけの人間として扱うことだ。
だから言葉遣いは、
その部下以上に敬語を使って挨拶も深々としてやればよい。
それをどう受け止めるかはその部下の”問題”だ。
そういうあなたの態度が、
自分を教育をしてくれている」と受け取れないようなら、
そういう人間はどんなに年齢を重ねても役には立たない。