第2,459号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「人生”やれること”を悔いなくやり続けよう!」 -1-

 

セミナーでもブログでも、
いつも言っているけど、
私達には”できたこと”はあっても
「できること」など一つも無い。
だったら、
もう”できる”という意識も、
言葉さえも捨ててしまうことだ。
あるのはただ一つだけ「やれること」。
でも、
この「やれること」も、
口先で、
『私はやる!』
『私はやれる!』などと何万回叫んだところで、
何一つやれやしない。
その”コト”にあたるうえでの準備や知識が必要だ。
そのためには、
若いうちは特に、
「学び」が欠かせなくなる。
ところがこれも、
”雑識”のまま、
自分が学んでいると勘違いする人が多くいる。
”雑識”なら、
本を読んだり、
いろいろなセミナー詣でをして、
メモさえしっかり取って記録しておけば大丈夫なんて、
小学生にだってやれる。
そして、
小耳に挟んだフレーズを、
流行り言葉のように使いながら、
自分ではその真意を理解したつもりになっている。
誰かが、
新しいフレーズを口にすると、
『あぁ~、その言葉ならもう私も使っています!』とか、
さも、
『私は学んでいます!勉強しています!』と言いたげに。
”雑識”とは、
いい加減な知識、
中途半端な知識ということ。

人生で「学び」を手にするには、
ある先生がこういう言葉を残されている。
『”知識”は”見識”に変え、”見識”はさらに”胆識”に変えよ!』と。

「人生”やれること”を悔いなく”やり続ける”!」ために、
まずは、
「学び」の本質から復習していこう。

今日から新しいシリーズ。

 

第2,458号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-62-

 

62回にわたりお伝えしてきた、
「人生の”目的”」シリーズもいよいよ今回が最終回。

「人生の”目的”」について、
いろいろな角度からお伝えしてきたが、
最後にお伝えしたいのは、
「人生の”目的”」=「人生の”幸せ”」ではないということ。

つまるところ、
人生は、
最後の最後になってみなきゃ、
誰にも判らない。
多くの財を築き、
死後の財産分与が心配で死んでいく人。
お金は無かったけど、
いつも笑いの渦の中、
家族や仲間に囲まれ死んでいく人。
社会的に名を残し、
世のなかに多くのシステムや発明を残して死んでい行く人。
死にたくない!死にたくないと!
駄々をこねながら死んでいく人。
1,000人いれば1,000通りの生き方があるように、
死に方もまた、
1,000通りの死に方があるのだろう。
あるノベル賞受賞者のこんな話がある。
彼はノーベル賞をとるほどの発明をし、
人類に大きな貢献をした。
それこそ「人生の”目的”」としてなら最高レベルかも?
でも、
その研究のために、
家族との時間を割き、
安定した収入を捨て、
やっとお金が入ってきた頃にはもう60を超えていた。

つまり、
結果として幸せだったかどうか?
これは、
息を引き取る時、
その本人だけにしか自覚することのできないこと。
いうならば、
誰にお役立ちしたかとか、
世の中に役立ったかとかいう
そんな小さなことではないということ。

なによりも、
他人様に迷惑はかけていないか?
自分自身を裏切っていないか?
自分自身を騙していないか?

それを踏まえたうえで、
あなたが何を選択するか?
どういう行動をとるかということだけではないだろうか?

私ももう残すところ、
20年は無いだろう人生を、
悔いなく、
懸命に生きると約束しよう。

永いシリーズをありがとうございました。
また、
明日から、
新しいシリーズでお逢いしましょう。

 

第2,457号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-61-

 

人生の”ステージ”はどんどんと変わっていく。
だから、
私達自身も、
どんどんとステージアップしていかないと、
「人生の”目的”」を見失うことになる。
私の受講生の中に、その世界では結構有名な料理人がいる。
雑誌にもよく登場するし、
TVにも出てくる。
そんな彼が、
ある時、
『先生、もう料理を作る気が失せてきて・・・』と心の内を明かしてくれた。
酒を酌み交わしながら、
よくよく聞いていくと、
元々、
会社(お店)のため、
お客様のため!
家族のために!という義務感が彼の心の奥底で眠っていた。

いつもいっているけど、
サービス業でも、
お客様のために、
お客様の喜ぶために、
お客様にお店の価値を届ける・・・・。
こうした義務感に近いスタンスで仕事に取組んでいると、
いつしか、
人はそこから動けなくなっていく。
これがストレスを生み出し最大の原因だ。
人生が”ステージ”である以上。
私達がそこで取組む仕事へのスタンスは
いつもクリエイティブでなければならない。
自分の中に存在する、
そういう”意志気(意識)”と向き合えた時、
はじめて、
人は前向きになる。

よく前向きな言葉を使えば、
行動も前向きになるというような人がいるが、
私達のメカニズムはそんな単純には作られていない。

もしかしたら、
『人生は”目的”を持って生きろ!』という人より、
『人生には”目的”なんかはじめっから無いのかもしれない!と、
こう受け止める人の方が健康なのかも?

さぁ~!
いよいよこのシリーズも明日が最終回。

第2,456号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(’ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-60-

 

「人生の”目的”」らしきものを感じたら、
そのモチベーションが
どこから来ているのか検証してみることだ。
変に浮いたワクワク感から来ているのか?
または、
普段恐れている、
罪悪感とか、
不安とか、
どこかで無理してそこにたどり着いたのか?
具体的には、
『社会貢献だ!』と、
マイにボランティアに出てはいくが、
自分一人とアルバイト一人で、
賄っているような、
飲食店や小さな小売店の店主が、
店はアルバイトに任せっきりで、
店に出ることも少ない。
そんな状態の中で、
ボランティアの中といる時は、
ワクワク感が高まり、
それが心地良く、
『これが私の人生の”目的”だ!』と思い込んでいるのなら、
一日も早く、
そこから抜け出した方が良い。
必ず、
取り返しのつかないことになる。

「社会に認められたい!」
「誰かの役に立ちたい!」
「いい気分に浸りたい!」
「先生と呼ばれたい!」
「社長と呼ばれたい!」
こういうモチベーションは絶対に永続きしない。

一例の、
「誰かの役に立ちたい!」。
これがモチベーションとしてある人は、
自分が頑張っているのに、
誰も喜んでくれていないと感じたら、
自分がやっていることに
意味が無いと感じるようになるから。
ましてや、
「みんなといるから楽しい!」
「このメンバーでいるとワクワクする!」
こんな浅いモチベーションから出たものは、
いずれ跡形も無く燃え尽きることになる。

第2,455号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-59-

 

多くの人が、
『これが俺の「人生の”目的”」だ!』と頑張っている。
でも、ある日突然、
それが燃え尽きるように落ち込んでしまうことがある。
それは、
「人生の”目的”」だと思い込んでいたものが、
実はそうではなかったと気付くから。

例えば、
起業をして一度失敗をすると、
得てして、
『今度こそは失敗するものか!』
中には、
『〇〇年には必ず上場させて見せる!』と、
それこそ意味も形も無いモノを、
幻を追いかけるように追い求め始める。
『売上を上げなければならない!』
『会社を大きくしなければならない!』
『絶対に上場しなければならない!』
この「・・・ねばならない!」という、
使命感と思い込んでしまうような呪文は、
私達にとって、
とても”厄介”なものになる。
なぜなら、
人生にとってそんなものは必要ないから。

もしそういうものが
人生を生きる上で
必要とされているのなら、
私達は、
誰もかれも、
「人生の”目的”」が同じになってしまう。
私達の人生には「やれることしかない」。
”やらねばならないこと”
こういうことは一つも無いことに気付くことだ。

子供が、
隣の子が持つ玩具や自転車を欲しがるように、
「人生の”目的”」を追い求めているのなら、
一日も早く、
その「人生の”目的”」が、
自分自身のものであるか否か、
確認をしたほうが良い。
とてつもなく大きな”落とし穴”に陥る前に。

「人生の”目的”」を見出すには、
こうした呪縛から自分を解き放つことだ。

第2,454号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-58-

 

「人生の”目的”」を考えた時、
多くの人は、
”目的”は必ず「在るものだ!」と思いがちだ。
もしかしたら、
そんなものは、
みんな”後付け”でやって来るのかもしれない。
私達は、
人として生まれ、
学び、
成長し、
成人して、
やがては、
誰もが最期を迎えるようになっている。
だったら、
他人様に迷惑をかけずに、
懸命に生きさえすれば、
それだけで十分なような気がしないでもない。

ある受講生がこんなことを話してくれた、
『私は入社して25年。
管理職にはなっていますが、
今でも結局は会社の中で歯車の一つのような気がします!』
こういって、
受講当時の悩みを語ってくれた。
でも、
冷静に考えれば、
誰だって、
みんな社会の”歯車”にすぎない。
そんな”歯車”の一つひとつがあるから、
社会全体が成り立っている。

こんな”歯車”の一つであることが、
恥ずかしいことなのだろうか?
不幸なことなのだろうか?
この世の中は、
”歯車どおし”が、
時に絡み合い、
時に、
空回りしながら、
回っているような気がする。
そんな中の一つの”歯車”が突然無くなってしまったら、
それまで、
その”歯車”に接点を持っていた、
全ての”歯車”の回転が狂いだす。

”歯車”に過ぎない自分を悲観するのではなく、
”歯車”として、
自分が「やれること」はないかを考えた方が、
その”歯車”を、
今よりも、
大きく強く回転させることができるような気がするが・・・・。
いかがだろうか?

第2,453号・ブログ

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私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-57-

 

『自分はダメな人間だ!』
『自分なんか!・・・』
こんなふうに、
自分自身を卑下して、
ずっと後ろ向きに歩んできた人が、
ある瞬間を境に、
急に過度なワクワク感と使命感に目覚めることがある。
私の受講生にも、
何年も永い間、
”鬱”の世界に悩まされ、
苦しみの中にいた人が、
ある時、
『私はこの苦しみを他の人ために役立てる』と反転し、
そこから急に、
パワフルで、
明るく、
まるで、
ニコニコ人形が乗り移ったかのように、
笑顔にあふれた日々になる人が・・・・。
私は、
そんな彼を見て、
『自分のことを大切にな!無理をするなよ!』とだけ
言葉を送った。
こうした過度な使命感やワクワク感が生まれてくると、
人は、
どこかで自分自身の平安を置き忘れていってしまいがちになる。

『自分はダメなんだ!』と思い込んでいる人は、
自分自身に対して”無価値観”を抱いている。
そういう人が、
ある時、
突然のごとく「人生の”目的”」に目覚めると、
『こんな自分でも価値を見いだせるんだ!』と
考えるようになる。
これは決して悪いことではないが、
こうした、
心の中の問題は、
”ここまでやれば十分です!”といったラインが無い。
だから、
どんどんとのめり込んでいく。
いつも、
どこにいても、
自分自身がパワフルに活動していないと、
気が休まらなくなっていく。

人は、
動く時があり、
休む時があるのが当たり前。
いつも何かしていないと、
いつも笑顔でいないと、
生きているという、
証を感じられなくなっていく。
これが”落とし穴”だ。
無理など不要。
いつも笑顔でいなくったって良い。
だって・・・・人間なんだから!

第2,452号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-56-

 

「人生の”目的”」は人それぞれで、
どんなことだって良いと私は感じている。
何が良くて、
何が悪いではなく、
「これが自分の人生の目的だ!」と思えれば、
なんだって良い。
でも、
それが、
変に偏ってしまうと、
人生のバランスを失うことになりかねない。
たとえば、
家庭を持つ主婦が、
家族のために家事をこなすことこそが、
自分の「人生の”目的”」だと、
それだけに偏ってしまうと、
子供が独立してしまったり、
ご主人が仕事で忙しく、
会話も無くなっていくと、
『私はいったい何なの?』と感ずるようになる。
”家族のためだけに!”を「人生の”目的”」にしてしまうと、
こういう結果にもなりかねない。
誰かのために尽くすことは、
意義のあることだけど、
自分自身の人生を忘れてしまわないことだ。
誰かのために、
誰かの役に立つために、
言葉では耳触りが良く、
一般的には”良い”とされることに、
”不幸になる芽”が潜んでいることが多々ある。
まずは、
自分自身が不幸を感じないことだ。
自分の「人生の”目的”」を果たしているつもりなのに、
イライラ感が高まったり、
辛さを感ずることがあるのなら、
それは、
どこかに無理があるから。
どこかで自分じゃない自分を演じているから。

誰かのために”お役立ち”。
そんな言葉に踊らされることなく、
自分自身のために、
まずは”お役立ち”することだ。
自分だけの人生なのだから。

第2,451号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-55-

 

「人生の”目的”」を追い求めるあまり、
人生の”落とし穴”にはまる人も多くいる。
「人生は熱く生きなきゃいけない!」
「人生とはこうあるべきだ!」
特に、
「世のため人のために役立つことが人生!」
これなど、
もう自分の人生というか、
”生き方”そのものが芝居じみた世界のようになって、
完全に自分を見失っていく典型。
現に、
「誰かの役に立つ!」
「世のため人のために!」と口にしている人ほど、
自分勝手で、
上から目線の人が多い。
だから、
自分でとった行動は、
身勝手にもどんどんと置き忘れていき、
自分じゃない自分を演じていることに全く気付けていない。
ハッキリというが、
人生はそんな綺麗ごとでは進めない。
一人ひとりが、
自分の人生を懸命に生きていくだけで精一杯なはず。
自分の人生を精一杯生きていない人間が、
得てしてこういう言葉を口にする。

過去に私の受講生でもそういう人がいた。
自分が生活に困り、
市民税も滞納し困窮して、
私にお金を借りた。
それはそれでよい。
貸したら返ってこないモノと、
はなっから覚悟していたから。
ところが、
その返し方が疑いたくなるほど酷かった。
最後の返済振込があった日に、
メールが1本。
『先生ありがとうございました。助かりました!』
たったこれだけ。
なにも手土産持ってこいとは言わないが、
せめて逢って一言あるのが礼儀というもの。
こういう人が、
人の前では、
世のため人のためを口にしている。

「人生の”目的”」を見つけるには、
一にも二にも、
”素”になって生きることだ。
先生と呼ばれる人間は・・・・「先生らしくなく人間らしく」
社長と呼ばれる人間も・・・・「社長らしくなく人間らしく」
そうしないと、
演じている先に待つ、
大きな”落とし穴”にはまることになる。

第2,450号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
私の後悔から生まれた教訓”人生の目的”はここにあった!”-54-

 

誰もが、
自分の人生を切り開いて、
懸命に努力をしているように思ってはいるけど、
もしかしたら、
人生道って、
「開かれた道」しか進んでいないのかもしれない。

私のクライアント先で働く
アルバイトのフリーターでこんな人がいる。

『僕の”夢”はミュージシャンになることなんです!』
そういった想いというか、
自分のなりたいコトを探す。
それはそれで素晴らしいことだ。
でも、
ミュージシャンになるには、
仕事を辞めるか、
またはその関係の仕事をしながら、
音楽の基礎を学び、
レッスンを重ねながら磨いていかなくてはならない。
そのためのレッスン料も用意しなければならない。
ご両親に反対されるかもしれない。
それよりも、
しっかりと就活をして、
『仕事先を明確にしてほしい!』
そんなご両親の声が聞こえてきそうだ。

でも、
そんな”夢”を描くことを追い求めていくのも
若いうちは決して悪いことではない。
ただし、
先に走らないことだ。
先にあることばかりを思い描いて追い求め、
今この瞬間に”やれること”を見失っては元の木阿弥。
いつも、
今この瞬間の足元だけを見据えていく。
そして、
”夢”というものが、
結局は遠い未来にあるのではなく、
今この瞬間の足元にあることに気付くこと。
それに気付けた時、
描いていたものが現実に姿を見せ始める。

それこそが“夢”のはじまり。