第3,024号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー7-

 

どうしても人のことが気になって、
自分の”やれること”に目が向けられない人。
そんな状況からの脱出法は、
まず、
自分の置かれている状況を自覚することです。
「今の自分は自己憐憫の状態の中で、言い訳ばかりを口にして一向に動こうとしない!」
こういうことを自覚できていないから、
その状態から抜け出せない。

一言でいうなら、
人のことが気になって仕方のない人は、
「いま、目の前に自分が燃焼できるようなものが無いから!」
この一言に尽きる。
いくらでもあるはず。
自分が思い描く夢のような状況ばかりを追いかけているだけで、
心の中は、
「あぁ~なったら良いのになぁ~」
「あの頃は良かったなぁ~・・・戻りたいなぁ~」
もう夢遊病者と変わらない状態であることを自覚すること。

私にもこんな時はなんどもあった。
そんな時は、
私がやったことはいつも”散歩”と”掃除”だけだった。
はたから見ているとラッキーなだけなように思われる人も、
決してそんなことは無いと思う。
同時に、
アン・ラッキーだけの人というのもいないだろう。

「いつかどこからか運が向いてくる!」
などと考えていないで、
すでに自分自身に与えられている条件の中で、
今すぐに”やれること”を選択してやれば良いだけだ。
描く目的のところに直接的に関わりそうもないことでいい。
大切なことは、
「”やれること”をいますぐ”やる”」ということ。
私達に与えられている「創造力」とはそういうものをいう。

第3,023号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー6-

 

「他人のことが気になって仕方がない!」
こんな気持ちになったことは誰にでもあるだろう。
相手と自分を比較しても、
結局はため息しか出てこないのに・・・・。

そんな時の自分の気持ちを振り返ってみることだ。
たいていは、
やることもなく、
ブラブラとしているか、
何をしたらよいのかも判らず、
気持ちが浮いた状態の時だったはず。
例えば、
「〇〇をやらなきゃ!」と思っているのに、
なぜか行動をしない自分でいる時とか、
「何とかしなきゃ!」と思っているのに、
何をして良いのか考えもつかないで右往左往している時。
こんな時の私達って、
単に、
”やる!”という意志気(意識)が弱いだけだったりするのだが、
いったん自己憐憫の渦に巻き込まれてしまうと、
その空間が妙に居心地がよくなって、
『頭では解ってるんですがぁ~・・・』を口癖にして、
なかなか行動に移せなくなる。
そしてそれとは真逆に見える誰かのことを、
『あの人は良いよなぁ~』
『あぁ~あの人のようになれればなぁ~』と、
どんどんと、
自分自身を置き去りにして、
いつの間にか、
心までもが自分の中から遠ざかっていってしまう。

ここから脱出するには、
自分自身で”気付く”ことしかない。

その具体的手法は明日のブログで!

第3,022号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー5-

 

誰でもが少しは持っているであろう”コンプレックス”。
この正体はいったい何なのだろうか?

昔、
野球をやっていた頃、
死んだ親父に言われたことがある。
私は幼い頃から身長があまりなく、
スポーツをするにはどうしてもハンディを感じていた。
手のサイズも小さく、
今でもゴルフのグローブは23㎝というメンズの中では一番小さいサイズを使用しているが、
それでもまだ余ってしまうほど・・・・。
だから野球では変化球が投げにくかった。
そんな時、
親父の言葉は、
『それはお前のコンププレックスだ。
コンプレックスというのは、
”ここを磨きなさい!鍛えなさい!”という
目印のようなものだ!』・・・・・こういわれたけど、
身長や手のサイズが鍛えたところで、
そうそう伸びたりするものではない。
すると、
『”鍛えなさい!”というのは、
無いものを案じて頭を抱えているのではなく、
いまあるものでどう向き合うかを考えろということだ!』と怒鳴られたのを覚えている。
その頃の私は足だけは自信があった。
だから誰よりもベーランは早かった。

「目印(目標)」は無いよりあった方が良い。
どんな山道でも迷わずに進める。
自分自身の”行動指針”になってくれる。

この他にも人には鋳型にはめ込まれたような、
つまり、
身長や目の色とか、
出身地とか、
育った家庭環境とか、
”変えられない宿命的コンプレックス”もあるだろうけど、
どうにか向き合える部分もたくさんある。
その向き合える部分から、
一つひとつ”やれること”をやればよいだけだ。
それが「目印」を活かすということになる。

第3,021号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー4-

 

人生を「創造」するとは、
言い換えるなら、
自分で自分の人生の”プロデュサー”になるということ。
最初っから完璧な創造力(プロデュース力)を
身に付けている人などいない。
これもいつも言っているけど、
世の中に”凄い人”などいないのだから、
誰でもが中途半端で、
試行錯誤しながら人生と向き合っている。
でも誰にでも、
『あの人は凄いよなぁ~!』
『あぁいう人を成功者というんだろうなぁ~』と、
こんなふうに見えてしまう人が一人か二人はいる。
でもそれって、
自分自身の中に潜んでいる”コンプレックスのようなもの。
どこかでそんな経験をしてしまうと、
なかなか軽くならない
重い荷物を背負いながら歩いていくようなものだ。

こういう人は、
人が”五感”で感ずるところにしか意識がいかなくなる。
つまり、
人よりも多く(収入)。
人よりも高く(地位)。
人よりも美しく(健康)。
”人よりも”・・・・これが幸せのキーワードになっている。
人生の中で、
実は一番大きな苦しみを背負っていることに気付けない人。
それが、
「自分の幸せを知る術は他人の不幸を知ること!」が基準の人。

ビジネスでもいえる。
こういう人が経営者や管理職になると、
他社よりも・・・・もっと!
他店よりも・・・・さらに!
基準はいつも他社や他店で、
優勝劣敗が基準になっていくから、
自社より競合は劣っていればそれで安心してしまい、
自分自身をどんどんと見失っていく。

第3,020号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー3-

 

誰だって人から嫌われることは好まない。
たとえそれが、
駅のホームで袖すれ合うだけの人でも、
相手が自分に向けている視線や雰囲気が、
どこか否定的なものだと気になるものである。
”誰れからも嫌われまい!”としている人には特徴がある。
まず、
初対面から異常にテンションが高く、
そこまで必要ないだろうと思うほどの笑顔。
もう一つは、
相手のリ・アクションに非常に敏感で、
ついつい言わなくても良いことを口に出してしまう。
嫌われたくない、
評価を下げられたくない、
こういう気持ちが言い訳や弁解になっていることに気付かず、
”あぁ~言えばこう言う”状態が続く。

いつもいっているけど、
誰からも嫌われない生き方などはこの世の中に存在しない。
あなたにだっているでしょ?
特に相手が自分に酷いことをするわけでもないのに、
なんか好きになれない人って。
つまり、
あなた以外の相手にも、
同じようにあなたを感じている人がいるということ。
でも、
まだ逢ってもいない。
お話もしたことが無いのに、
あなたのことを嫌いになるというのは、
それはあなたの問題ではなく相手側の問題。
つまり、
あなたが誰かをそう見てしまうのは、
あなた自身の問題ということ。
従って・・・
「嫌われないようにする」こと自体が無駄なコト。

「自分の”価値”は相手に好かれるかどうかで決まるものではない!」というこの”真理=「原理原則」”を忘れないことである。

”自分自身で創造する”とは、
誰からも好かれる演出や、
非難されない無難な表現を身に付けるというより、
自分が正直に素のままで、
自己表現出来るようになることを目指した方が、
どれだけ楽で楽しいか?

嫌われないためにあれこれ考える時間があったら、
自分自身としっかり向き合うことだ。
”自分自身と向き合う”とは、
自分の全ての過去を受入れるということ。

第3,019号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー2-

 

人材教育の会社を立ち上げ、
起業してから13年目を迎えた。
多くの受講生達と向き合い、
”人生や仕事が思うようにうまくいかない”と悩む人達の声に耳を傾け見えてきたことが一つある。
それは、
「自分が置かれている現状が、思い描いていたことと食い違うため」に発生しているということ。
言い換えると、
旅に出て、
”地形”を頼りながら行く道を進んでいる時、
手にする”地図”がそれと同じなら私達は満足し安心もする。
ところが、
これが食い違ってくると、
急に不安が襲ってくるという経験は誰でもがしているはず。
この場合の”自ら歩んでいる地形”が現状で、
手にする”地図”とは、
自分が思い描いている姿といえる。
状況に応じて”地図”を書き換えていくことを身に付けていると、
そういう悩みは生み出されてこないのだが・・・・。

人間関係も同じことが言える。
どうも最近は、
表面的な”関係”を築くことにしか気持ちが向かず、
人の「性格」といったものも、
原理原則から離れて行っているような気がしてならない。

”あの人は良い人だよね!”というのは、
たいていが感じが良くて(アクが強くない人)、
笑顔があって、
明るくて・・・・と表面的なところだけを捉えがちになる。
心理学でいうところの「性格の定義」は、
”その人の身に沁みついた習慣的なものの捉え方や考え方、
その上での、
他人との関り方を総合した人格(核)的な特徴”を指すのだが、
人と長く「関係性」を結ぼうとする時、
なかなか上手くいかないのは、
深く関係性を持って関る相手としてふさわしくない”性格”を、
知り合ってしばらくの間は、
自分の中にも他人の中にもそれを見落としてしまうから。

他人と深く付き合う上で一番大切なことは”演じない”ことだ。
”演じれば”合わせようとし、
楽しさも失われていくだけ。

第3,018号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生は自分自身で創造するもの!」 ー1-

 

今日からの新しいシリーズは、
「人生は自分自身で創造するもの!」 と題してお届けする。

永いこと人事の教育部門で生きてきて、
独立してからも、
さまざまな企業さまの人材教育をお手伝いさせていただき、
最も大きな気付きを得たことは、
「誰一人として能力のない人など存在しない」ということと、
「実は職場で抱える”悩み”はほとんどが自分の”潜在意識”の中で生み出されている」ということ。
この二つに尽きる。

『早く仕事を覚えなくちゃぁ~』
『上司から評価を得るように頑張らなきゃ・・・』
『自分を正しく評価してくれていないんじゃないか?』
『どうも何をやっても”成果”が得られない』
『部下が思うように育ってくれない!』
『上司との人間関係が上手くいかない!』
『なんで自分のいうことが解ってくれないのだろうか?』
『もっと従業員のモチベーションを向上させたいのに・・・』

働いているとこういう”悩み”を語る人が、
管理職や部下といわれる人はもちろん、
経営者の中にも多くいらっしゃるが、
よくよく向き合ってみると、
その原因は、
職場以前のところに存在していることがほとんど。
だから、
いくら大きな声を出しても、
笑顔を強要して訓練しても、
その場その場でのテンションは一時的に上がるが、
本人は自己の中に落し込めず、
周囲はそれを受け留められないから、
いつの間にかなし崩しになっていく。

私のセミナーでも同じだ。
6,500名の受講生を輩出しても、
今なお、
その時の”気付き”を自分の中に根付かせて実践している人は、
100人にも満たないであろう。

今日からのシリーズは、
あの2日間でのセミナーでの”気付き”を是非、
思い出していただきたく、
そんな受講生達に贈るシリーズ。
読んでいただきながら、
もう一度、
振り返ってほしい!

第3,017号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「後ろを振り返るより前を見ろ!」 ー60-

 

60日間に渡ってお届けしてきたこのシリーズも今日が最終回。
長いシリーズを今回も読んでいただきありがとうございました。
受講生の皆さんは、
あの”ベーシック&アドバンス”で体感していただいた2日間を、
呼び起こすキッカケが多くあったと思います。
私達は”忘れる生き物”。
でも、
この「忘却」という切り離せない性も、
「記憶」という素晴らしい性を反面に持ち合わせているから。
目の前にいろいろなコトが新しく起これば、
古いことは忘れていくのが常。
中には忘れていくべきものを、
どこかで忘れないようにしてしまっている自分がいることにも
また気付いて欲しい。

ストレスと同じように、
「忘却」もまた善し悪しが存在しているということ。
辛く苦しい過去の思い出など思い出す必要など無い。
私達は、
過去でも現在でもなく、
”未来”という時空間の入口に立っている。
そしてその”未来”は、
今目の前の瞬間瞬間の積み重ねでしか創り上げられない。
いつも見詰めるのは”目の前のこと”だけで十分だ。
過去から持ってくるのは、
*楽しかった思い出
*反省(自省)
この二つだけであとは全部捨ててきてしまうこと。

後ろを振り返るより前を向いて生きよう!
明日が来る保証などどこにも無いけど、
いつ明日が来てもいいように、
この瞬間瞬間を悔いなく生きていこう!
立派な人といわれなくてもいいから、
成功者と呼ばれなくてもいいから、
昨日の自分よりは、
少しだけ前に進んでいる自分で明日に備えていこう!

長いシリーズありがとうございました。
明日からはまた新しいシリーズでお逢いしましょう!

第3,016号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「後ろを振り返るより前を見ろ!」 ー59-

 

食することは生きる上でこの上なく重要なコト。
この”食”を一つとってみても、
その人の本質は見え隠れしてくる。
いつも言っているけど、
この世の中に、
”美味い”とか”不味い”といった基準など存在していない。
私がM社のグルメ審査員を依頼された時、
つくづくそれを強く感じた。
ワン・ディナー20,000円とか30,000円もするものは、
食材そのものが高級品を使っているし、
3星獲得したというフレンチのレストンでも、
格別な美味さは感じなかった。
”美味い不味い”はあくまでも個々の「嗜好」に過ぎない。
そんなことよりも、
よく寿司屋さんで、
出されたお寿司を写メしている投稿を見かけるけど、
お寿司というのは秒単位で劣化が始まる。
そんなことも理解せずに、
「この寿司最高!」などとコメントしているようでは味など語る資格はないそうだ。
これは数寄屋橋ℤ店で教えていただいたこと。
こういう人達は、
食しているモノの”味”そのものより、
有名店、
行列のできる店、
高価なお店という”現象”に舌が惑わされているだけに過ぎないそうだけど、
これには私も全く同感である。
天ぷら屋さんのカウンターに座ったら、
箸を片手に出されるのを待つのが礼儀というものだそうだ。

”食”に関する「欲」は、
空腹を満たすだけに留ま
高級なお店、
人気のお店で食することが、
”食の満足感”と勘違いしてきている世の中で、
どこかにその「本質」が置き忘れられている感じがする。
こういう「欲」もそれが過ぎると考えものである。
人は「欲」に振りまわされるようになると、
自分自身を見失いだす。

第3,015号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「後ろを振り返るより前を見ろ!」 ー58-

 

人の行動原点はいつもお話しているが”欲”。
この世に”欲”無くして人が行動することは無い。
おぎゃぁ~!と生まれた時から、
この”欲”は持ち合わせて生きてきている。
あのマズローの欲求5段階説にもあるように、
生理的欲求にはじまり、
安全の欲求、
社会的欲求、
自我の欲求、
自己実現の欲求へと、
一つの”欲”が埋まれば、
すぐさま次の”欲”が目覚め、
その行先は留まるところを知らない。

”欲”があることは決して悪いことではない。
「欲の過剰」が悪いことなのである。
これは毎日の食事が物語っている。
私達は生きるためには食べなくてはならない。
食べるためには働いてお金を手にしなくてはならい。
ところが、
何日も飲まず食わずで空腹な時は、
たとえひえや泡の雑穀類のお結びでも食らいついていくのに、
それが数日も経てば・・・・、
『もっと美味いものが・・・・』
『もっとたくさん!』
どんどんと”欲”は過剰になっていく。
”欲の過剰”は健康はもとより、
人間関係も破壊し、
自身の社会的存在させも失いかねなくなる。
”がん”という字が”病ダレに口が山のように”と書いて「癌」。
”欲の過剰”が過ぎると、
その未来には危険なトラップが必然的に仕掛けられていく。