第5,084号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー159-

 

人の「不幸」は人それぞれだが、
自分がいま向き合っている会社や仕事、
その中の環境や待遇に対してや、
自分の周りにいる人に対して不満や嫉妬を抱いている人。
または、
自分の健康に満足することが出来ず、
日々の生活に感謝してそれに快さを感じれないでいる人。
あるいは、
自分以外の”他人と比べることでしか
自分の「幸福感」を感じられない人。
こういう人達ほど”不幸な人”はいない。
反して、
周りの”他人”がどう見ようが、
現在の自分の環境や待遇に感謝し、
そのことに心の底から喜びを感じられている人
そういう人達は、
終始一貫して幸福のるつぼの中で生きていることになる
お金とか、
地位とか、
他人との競い合いとか、
そうしたものから、
時には「を離して自分に問いかけてみることだ。

第5,083号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー158-

 

歳をとり”老人”と言われるようになると、
物覚えが悪くなる”とよくいわれる。
そして医者にって相談すると、
たいていの医者は”加齢による物忘れ”で片づけられてしまうが、
これは、
加齢により記憶力が低下したからではない。
その証拠に、
子どもの頃からの自慢話や、
何十年も前の苦労話は細部にわたるまで実に詳細にしゃべる。
したがって、
その”物忘れ”は、
加齢によるものではなく、
身の回りのことに対して、
自ら興味が薄れ、
『いい歳してあれはやれないよなぁ~』
『もう若くないんだから・・・・』と、
多くのことに対する挑戦心が減退したからである。
例え60を過ぎようと、
70~80になろうとも、
身の回りのことに興味心を高め、
挑戦し続けることを習慣化さえしていけば
小さな”物忘れなど問題ではなくなっていく

第5,082号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー157-

 

分裂しない心」を持て。
とかく私達の「」は”分裂しやすくできている”。
目の前に作業が山積みにされると、
手を着ける前から面くらってしまい、
課長から命じられた急ぎの作業をしているところに、
部長から新しい作業指示が出されると、
腹の中では、
『えっ~いまこれやってるのにぃ~』と思いつつ、
相手が部長であるという外部条件がまた「」を揺さぶり、
思わず二つ返事で受けてしまい、
部長の姿が見えなくなると、
『えっ~全くどうすりゃぁ~いいのよぉ~』と天を仰ぐ。
天風先生はこういう状態を、
何事に対してもが十分に打ち込まれていない
これが原因であると教えてくれている。
平素から、
挨拶をはじめ、
どんな些細な作業に対しても、
自分の
十分に打ち込んで向き合うことを習慣づけていると、
山のような作業が目前に生じようと、
自らの「は秩序正しく
やれることからテキパキと取組んでいけるようになる。

 

 

第5,081号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー156-

 

よく『”現実”は厳しいから・・・』と口にする人がいるが、
現実”とは、
実際に目の前に現れる単なる現象”」であり、
現実現実でしかないと天風哲学では教えている。
自分が生きている」ということもこれは”現実”。
どんな人でも、
『いま自分は死んでいる』などと感じる人はいない。
生きている。
息をしている。
飯を食っている。
歩いている。
恋をしている。
怒っている。
悲しんでいる。

私はこの教えをこう理解している。
現実”であるから目の前のことは全て「事実」ではある。
事実」ではあるが・・・・、
その目の前のことが起きるに至っては、
何らかの自分の心構えや意識が根底に存在している
それに気付くことこそが、
その「事実」に隠れている「真実」というべきものであり、
本質」といわれるものであると。

 

第5,080号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー155-

 

私のセミナーに「コミットメント誓約)」というカリキュラムが出てくる。
これは自分が社会生活を送る中で、
まず自分自身が、
そこで「自分がやれること”」を、
私生活の中と、
職場内生活の中から、
一つづつ公言して、
それに向き合う「不断の心構え」の発表のようなもの。
天風哲学の中では、
この「不断の精神」は”普段の精神”と同じであると説いている。
どういうことかというなら、
普段”とは「日常」のことをいう。
その日常生活の中で、
自分自身が『やります!』とコミットメント誓約)した、
目の前の「小さなやれることの積み重ね」こそ、
大事を成す”という大きな結果をもたらしてくれるということ。
これは古い訓話の中にも、
行修は不断であれ」という言葉に表されており、
言い換えるなら、
行修とは「悟り」を開くための修行のことだが、
悟りを開くため”には、
特別なことをするのではなく、
日常の生活そのもの中で「小さなやれること”」を、
一つひとつ積み重ねていきなさいという意味。

第5,079号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー154-

 

天風哲学のなかに「情味の大切さ」というのがある。
この「情味」という言葉の意味は、
物のおもむきやおもしろみ。
人間らしいあたたかみや、
人間本来が持つ特有の能力といえるかもしれない。
自分自身の人生を、
真に生き甲斐のあるものにするためには、
この「情味」というものが不可欠になる。
天風哲学の中では、
さらに厳格な表現で、
”この「情味が欠如した人の人生は
いかに地位が高いところに昇りつめようが、
仮に大きな富を手に入れようが、
それらは所詮、
全てが無意義で、
空虚で荒寥こうりょうたるものになる”と断言している。
身近な社会生活の中で言うなら、
生き甲斐」とは、
給与とか、
働く環境とか、
福利厚生などといった物質的な事の中には存在せず、
働く人そのものの向き合い方在り方の中にこそ存在し得る

第5,078号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー153-

 

同情心”は無礼に値する。
よく「他人の身になって・・・・」と口にする方がいる。
病に悩む人、
運命に翻弄され苦しんでいる人、
身近なところでも、
上司に叱責され落ちこんでいる人や、
彼女(彼)と上手く関係性が築けずに悩んでいる人がいると、
その人の話を聞きながら、
理由の無い相槌」”を打つことで、
何か人としての、
お互いの交わりに対する”義務感的行為”で向き合っている人。
こういう人は、
そういうことが「礼儀だと勘違いしている人といえる。
こういう行為は「礼儀」どころか、
逆に”毒汁”を浴びせかけているのと変わりはない。
関係性を築く中で大切なことは、
本質」を外すことなく相手の話を聞くことから始まる。
解り易い事例で言うなら、
遅刻をして上司に強い口調で叱責され落ちこんでいる人には、
『酷いよねぇ~あんな言い方しなくても・・・・』と、
同情”することではなく、
自分の「真心」から、
それがなぜ起きたのか?”という「本質に気付くべく、
その人に諭し目を醒まさせることこそが礼儀」である。

第5,077号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー152-

 

本能心”と「理性心」。
同じ「」でもこの違いはどこに在るのか?
これはどちらが良くて、
どちらがダメというお話ではない。
本能心”とは、
私達の肉体生命の生存を確保するために存在している。
つまりは、
人が動物的方面での生存と生活に必要な作用を、
この「」は司っている。
代表的なものを挙げるとするなら、
食欲、睡眠欲、性欲の他、
私達の肉体的な欲求から発生する各種の欲望行為。
また”感覚念”から生まれるもの、
闘争心とか競争心、
復讐心、憎悪心、猜疑心に嫉妬心などで、
これらは、
動物が本来持つ特有の”低級心情”と言われている。
対して「理性心」とは、
事物事象に対する推理推考を司る」をいう。
先に述べたが、
どちらが良くてどちらが悪いという話ではない。
本能心”と「理性心のバランスこそが大切であり、
理性心」が”本能心”を統御する力は兼ね備えてはいない。

第5,076号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー151-

 

多くの人は「幸福」を手にしようと、
富や地位や権力に情報をと、
多くの方向に意識を獲られがちになる。
そうしたことも、
幸福」を手にするための一助にはなるかもしれないが、
何度も言うがそういうものはあくまでも、
相対的”で「絶対的」なものではない。
もし、
いま自分が、
わずかな富と、
身の丈に見合った地位を手にしているなら、
その”相対的”なものに「絶対的要素を加味することだ。
この「絶対的要素」というのが、
私達が「人として生きる上での信念”」を指している。
企業組織で言うなら「企業理念」のごときもの。

大きい小さい。
有名無名は別として、
世の中で、
真の成功者と言われる人や組織には、
間違いなくこれが燦然と輝いて在る

言い換えるなら、
人も組織もやり方の前に在り方」ということ。

 

第5,075号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「天風哲学に「人の在り方」を見る!」   ー150-

 

天風哲学で説かれてこれも大切なこと。
それが・・・・「”円転滑脱な生き方」をする。

この言葉を直訳するとこうなる。
円転」は丸く回る意で角立てずに滞りなく進むこと。
滑脱」はすべりぬける意味でなめらかで自在に変化すること。
つまり、
円転滑脱」とは、
ものごとが円滑に運んでとどこらない様”をさしている。

これをもう少し解り易く言うと・・・・、
無理せず
頑張らず
他人と競わず
先に思い描く目的だけを追い求めずに
いま目の前のやれること」”だけに全力集中する

やること」だけに全力集中するのだから、
それなら間違いなく「円転滑脱」で進む。
誰かの為に役立とうとか、
周囲に元気を与えようとか、
そういう”自我”を胸に抱かないことだ。
そうすれば余分な力も肩に入らず継続性も高められる。
ましてや今のような時代を生き抜くには、
より一層、
エネルギー)」の使い方を
無駄なく正しく制御させないとならない