第2,237号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”関係性”の時代に自分とどう向き合うか?」 -21-

 

「関係性」を語ると、
多く耳にするのが、
相手のことを考えてとか、
相手の立場になってとかいう言葉だが、
よくよく考えれば、
そんなことは自分が体験したことでなければほとんど無理。

日頃、
他人からモノを頼まれると嫌といえない人。
こういう人には、
多くの人がつまらぬことを振ってくる。
『悪いけどさぁ~あそこの〇〇片づけといてくれない?』
『悪いけど・・・今度の忘年会幹事やってくれる?』
『悪いけど・・・今度の組合のゴルフコンペお前行ってくれよ』
こうやって、
なんでもかんでも、
チョッとしたことはその人のところに振る。
そして、
突如、
その人が、
『もぅ~!いい加減にしてください!』と爆発すると、
『日ごろ大人しい奴はキレると凄いねぇ~』などと
茶化す愚か者もいるぐらいだが、
元をただせば、
その原因を作ったのは周囲の人達。
いうなら、
そんなキレて暴発的に噴火したような怒りの噴煙を、
甘んじて受けるべきといえる。

そして、
こういうことが起こると、
『もう少しあいつのことも考えてやろうよ!』と、
それが思いやりのように勘違いする、
”関係性表面オタク”のような人間が言い出す。

でも、
「本質」は全く別のところに在る。

それは、
各自が、
”自分のやれることは自分でやる!”を守ること。
片付けも、
『片づけなきゃいけない!』と思った人間が、
忘年会の幹事は交代でやって、
仕事上のゴルフコンペは、
そこに参加する人達と
一番接することの多い人間が参加すればよい。
都合で叶わぬなら欠席にすれば良いだけのこと。

加えてもう一つ上げるなら、
その”嫌といえない人”は、
嫌なことは『嫌です!』と、
予定がある時は『予定がある!』と、
いうことでしか、
マグマをため込んで
爆発的に噴火するような自分になるまで
自分を追い込んでしまう状況を防ぐことはできない。

「関係性」の目線の本質は、
相手ではなく、
常に自分であるということ。

 

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