《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「自分の人生に”他人”を引き入れるな!」 ー71-
「利他」と”他利”の話で、
毎月通っている”仏性セミナー”で教えられたことがある。
<自利→利他>(衆生の利他)
「自利に由るがゆえにすなわちよく利他す。
これ自利にあたわずしてよく利他するにあらざるなりと知るべし。」
<利他→自利>(仏の利他)
「利他に由るがゆえにすなわちよく自利す。
これ利他にあたわずしてよく自利するにはあらざるなりと知るべし。」
そして、
「他利と利他と談ずるに左右あり、
もしおのずから仏をして言わば、宜しく”利他”というべし、おのずから衆生をして言わば、よろしく”他利”と言うべし、いま将に仏力を談ぜんとす、このゆえに”利他”をもってこれを言う。」
「人間関係』で例えるなら、
私達が相手を好きになるのは、
実は、
”対象としての相手を好き”だということではなくて、
その人が「自分にしてくれる行為や気遣いが私を心地よくしてくれる」そのこういをとおしてその人が好きになっている。
だから、
一緒にいてイライラするようになったら『その人は嫌い』ということになる。
つまり弥陀と衆生の関係のように、
相手の成就を自分の成就に不可分のこととして内包してしまうような関係は、
私達人間同士の間には成り立たない、
これは親鸞が自ら浄土教七祖の一人として尊崇する曇鸞の教えから説いたことだが、
曇鸞は、
口先で「利他」を唱えながら行動するのは、
自己中心的にしか見ていけない人間の有様をそのまま表わしているようで見苦しくもある。
それよりも、
「ここに我成すことあらばそれに徹しよ」
そういう意識だけが「利他」として形を成していくということ。
ビジネスに携わるとりわけ企業の生存を左右する意思決定に携わる経営者は、
「顧客満足(CS)経営」とか、
「企業の社会的責任(CSR)」を標榜すればするほど、
それもつまるところ他利でありイコール自利であると心得て、
自分も含め、
しっかりとそれぞれの「やれること」を、
愚直に取組む姿勢こそが大切であると伝えていきたいものである。