第3,870号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人は誰もが生まれながらに”感導力”を備えている!」 ー11-

 

自分自身が「感動」というものを感じたいなら、
まずは・・・・「”になること」しかない。
素直な気持ちで人の話を聞いて、
素直な気持ちで人の動きを見て、
素直な気持ちで受け止めて、
素直な気持ちで行動してみる。
言い替えるなら、
素直な気持ち”とは「感動を呼び込むアンテナかもしれない。

ここでいう”素直な気持ち”とは、
「誰かに喜んでもらおう」とか、
「誰かの役に立とう」とか、
「徳を積もう」とか、
一見、
耳に心地よい言葉で、
さも善い行いをしているといった、
自我行為”のような意識を捨てること。

感動」は自分自身で受信しない限り感じることは無い。
こいう”自我意識”のような意識が入り込んでいると、
感動」というものは受信し難くなる。

人の話や、
人のやっていることを、
感情”で受け留めないことだ。
「好きか?嫌いか?」
「得手か?不得手か?」
こういう気持ちで聞いたり見たりすると、
『何が楽しくてあんなことやってんだろうねぇ~』
『あぁいうことは俺には到底まねできないねぇ~』
『なんでこんなことやらなきゃいけないのぉ~』
『これやって何になるのぉ~』
こういう意識で向き合う人には、
まず「感動」を受信することは不可能だ。

私の顧問先で、
ある店長が、
『最近、売上が落ち込んで・・・・』
『いろいろ試みたんですけどぉ~・・・・』
『もう打つ手が尽き果てましたぁ~』
こう私にボヤキを入れてきた(笑。
『先生!なんか直ぐに売上が上がる良い方法無いですかねぇ~』
すぐさま、
『そんなのあるわけないだろ』
『なにもやる事が無くなったら暇だよな?』
『・・・・・・・』
(「これまたなんかやらされる」という用心の顔)
『いいや命令ではないから嫌ならやらんでもいいよ』
『何ですかぁ~』

『”掃除”だ』
『店の前、左右100mづつでいいよ』
彼はまた『・・・・・・・・・』(無言)。

続きは明日。

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