第2,739号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》「人生も仕事も全ては”意志力”がカバーする!」 -40-

 

私達が生まれた時から、
兼ね備えているのが「意志力」だ。
思い出してほしい。
あの天真爛漫だったころのことを。
”出来るか?出来ないか?”などと
考えながら取組んではいなかったはず。
興味があるものには、
何でも手を出して、
危険すら省みず、
両親や周囲の大人をハラハラさせた。
誰にでも、
そんな時があったはず。
こういう話をすると、
多くの人は、
『そんなのは幼少のころの話・・・』と断ち切ろうとする。
そもそもそれが大間違いだ。
もちろん、
そのころから比べて、
分別も備わってなくてはならない。
ところが、
この”分別”をはき違えていく。

「分別」とは
仏教用語で”思椎(しゆい)”、”計度(けたく)”のことを指す。
簡単にいうなら、
”思椎”とは思考、考え方のこと。
”計度”とは傾度。
つまりは傾き加減の度合いを指している。

「分別」には
①.直覚作用:すぐに直覚で認識する作用でこれを”自性分別。
②.推理判断作用:よく考えて認識する作用でこれを”計度分別。
③.追憶作用:過去を想起して作用するでこれを”隨念分別”。

この3種が存在するといわれるが、
我々”凡人”の「分別」は”虚妄分別”といわれ、
損か得か?
勝つか負けるか?
良く思われるか?悪く思われるか?
こうした私欲の迷いの中で行われることが多いという。

私達が人生を歩く上にも、
ビジネスに取組む上にも、
大切なことは、
この”虚妄分別”を手放し、
「無分別智(むふんべつち)」で取組みなさいといわれている。

「無分別智」とは、
私達は通常、
物事を理解しようとする時、
その状態がどういうコトになっているかを分析把握し、
それをもとに体系化しようとする。
これを「分別智」というが、
「無分別智」とは、
物事を”分別(ふんべつ)”だけに頼らず、
直覚・直観で把握し判断しようというもの。
「分別智」がいけないとか、悪いという話ではなく、
それだけだと得た知識が部分的な真理になり、
全体的真理が見えなくなる恐れがあるということ。
「分別智」だけに囚われすぎると、
”執着”であり”煩悩”に至ると仏教では考えている。

ただ、
私達”凡人”はさらに、
「分別智」の”智(知恵)”さえも忘れ、
ただの”分別(ぶんべつ)”と
ごちゃ混ぜにしている人が多過ぎるようである。

気を付けた方が良い。
「分別(ふんべつ)」と”分別(ぶんべつ)”は全く異なる。
これをはき違えている人は、
「意志力」がそぎ落とされていく。

これが幼少のころと、
今の自分との一番大きな違いかもしれない。

今日は少し長くなってすみません!