第2,264号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・「禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「”悩み”を考える!」 -18-

 

私の苗字である「禰宜」というのは、
神官の職位名の一つで、
1,200数十年前に、
時の天皇様から頂戴したものと、
本家である滋賀の神殿の資料に記されている。

そんな資料と一緒に、
神道を記した書物の中にも「鏡の心」のことが記されている。

昨日のブログでお話しした
仏教の世界で仏壇に手を合わせるように、
神教の世界にも”鏡”に手を合わせて拝むという行法がある。
これは宇宙空間のエネルギーである、
私達人間の”命”の中には、
それぞれに《御霊》が強く息づき、
私達の健康から生き方までをサポートしているという。
その《御霊》・・・つまりは、
自分の心の中に宿る神様のようなもの。
”鏡”に向かって手を合わせると、
そこに映った自分の姿に、
私達は、
ある時は心躍らせ、
ある時は深く沈み込み、
またある時は昔を偲ばせ。
ある時は遠く離れた大切な人を思い浮かべながら、
心の中で語ることがあるはず。
それは紛れもなく、
自分の心の中の《御霊》と交信している姿だという。

いつまでも、
根深く、
怒りや悲しみ、
妬みや恨みを抱いて”鏡”に向かうと、
”鏡”に自分の歪んだ表情が幾重にも重なっていき、
いつしか”鏡”そのものまでもが濁りだしてしまう。

『あいつは絶対に許せない!』
そんな相手がいたとしても、
いつまでも怒りの感情を抱き続けたり、
『あの時、こうしておけばよかった・・』と
悔やんでいるようでは、
よっぽど暇な人間と思われるだけのこと。
いったん怒りを爆発させたら、
後はスパッと忘れること。

私達の肉体は衰えて、
動きも鈍くはなっていくだろうが、
命である《御霊》は、
常に次の瞬間に向かって動いているから、
そんな暇などどこにも無い。
そんなことより”やれることをどんどんやる”。
これこそが、
《御霊》に叶った生き方といえる。

・・・・とまぁ~、
こんなことが神道書の一説にも記されていたのでご参考に!

 

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