《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です」♪》
「人生”やれること”を悔いなくやり続けよう!」 -3-
「修養」・・・・
つまりは、
”試練”を重ねることで私達は人としての器量が作られていく。
学んだ知識が見識となり、
見識を持った器量人になると、
だんだんとその人の存在感が伝わっていき、
やがて、
胆識に満ちた自分が作られていく。
”学ぶ”ということは、
姿形ではない。
自分の仕事、
自分の生き方とけっして切り離せない存在にある。
従って、
自分の仕事や生活を疎かにして、
”学び”を得ようなどと考えないことだ。
どんなに忙しかろうと、
まずは、
自分自身の仕事、
向き合うべき事柄と向き合うことが責務とされる。
私の受講生の中にも、
飲食店を経営しながら、
”学びは一生”と口にして、
自らが主謀するコミュニティーをつくろうと、
自分の店をそっちのけで、
コミュニティー活動に精を出していた若い経営者がいた。
そのコミュニティーも、
毎月、
気心の知れたと自負する仲間で集まり、
ワイワイガヤガヤ、
それぞれの価値観をシェアし合っていたようだが、
そんなコミュニテーは敬遠することだ。
コミュニティーとは、
単に知識や情報交換の場ではない。
その若き経営者は、
いつしか、
経営する店舗が傾きだし、
結局は手放すことになった。
「”学び”は身体の一部になる!」といわれるように、
常に、
自分自身の生活や仕事の中にこそ見いだせるもの。
コミュニテーとは、
つまり、
”学び”は身体でとらえるというか、
身体の一部にならなければ”学び”とはいえないということ。
コミュニティーの場は、
そんな”学び”の交換の場。
大切なのは、
目の前の自分が”やれること”を見落とさないことだ。