《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生の歩き方は一つだけじゃない!」 ー73-
私が永いこと学ばせていただいている「仏教セミナー」。
ここで学んだことの一つにこんな言葉あった。
それは、
”グラスは既に壊れているとみなす”
これは世の中の全てのものは常に変化し、
やがては朽ち果てていく定めにあるという意味。
私達の命とてやがては朽ち果てる。
この宇宙の全てのものに”終わりがある”ということ。
木々は種から芽を出し、
青葉に萌えて、
実をつけて花を咲かせ、
やがては枯れて土に返る。
いまは高い地位にいる人も、
やがてはただの人となり死んで行く。
目の前のグラスも、
やがては壊れて崩れ去る時が必ず来る。
そういう「原理原則」を知っているにも関わらず、
私達は目の前の”現象”としてそれを必死に守り通そうとする。
命もすでに終わっていると思えば静な気持ちになれる。
モノも既に壊れていると考えれば執着もなくなる。
つまり、
目の前の大切なモノも、
突然、
目の前から姿を消すと驚きのあまり悲しくもなるが、
既に無きものと受け止めていれば、
大きな悲しみに囚われることもない。
こういう執着や未練の無駄さを教えてくれている。
一度、
試してみると良い。
気に入っているグラスで水を飲む。
その時に、
シンクの前で思わず手を滑らせてそのグラスが落ちて割れる。
お気に入りだろうがそうでなかろうが、
『壊れてもいい』と考える人などいない。
これは無気力になるための処方箋ではない。
物事を”在るがまま”に受け入れる訓練のようなものだ。
グラスが手から滑り落ちた時を想像しながら、
『あっ!しまった!』ではなく、
『役目を終えた』と降り返る。
そうすると、
壊れたグラスに自然と『ありがとう』という言葉が出てくる。
これは大切な人に対しても同じ。