第4,115号・ブログ

《”ねぎたけ”こと・・・禰宜 猛(ねぎ たけし)です!♪》
「人生の歩き方は一つだけじゃない!」  ー73-

 

私が永いこと学ばせていただいている「仏教セミナー」。
ここで学んだことの一つにこんな言葉あった。
それは、
グラスは既に壊れているとみなす
これは世の中の全てのものは常に変化し、
やがては朽ち果てていく定めにあるという意味。
私達の命とてやがては朽ち果てる。
この宇宙の全てのものに”終わりがある”ということ。
木々は種から芽を出し、
青葉に萌えて、
実をつけて花を咲かせ、
やがては枯れて土に返る。
いまは高い地位にいる人も、
やがてはただの人となり死んで行く。
目の前のグラスも、
やがては壊れて崩れ去る時が必ず来る。

そういう「原理原則」を知っているにも関わらず、
私達は目の前の”現象”としてそれを必死に守り通そうとする。

命もすでに終わっていると思えば静な気持ちになれる。
モノも既に壊れていると考えれば執着もなくなる。
つまり、
目の前の大切なモノも、
突然、
目の前から姿を消すと驚きのあまり悲しくもなるが、
既に無きものと受け止めていれば、
大きな悲しみに囚われることもない。

こういう執着や未練の無駄さを教えてくれている

一度、
試してみると良い。
気に入っているグラスで水を飲む。
その時に、
シンクの前で思わず手を滑らせてそのグラスが落ちて割れる。
お気に入りだろうがそうでなかろうが、
『壊れてもいい』と考える人などいない。
これは無気力になるための処方箋ではない。
物事を”在るがままに受け入れる訓練のようなものだ。
グラスが手から滑り落ちた時を想像しながら、
『あっ!しまった!』ではなく、
『役目を終えた』と降り返る。
そうすると、
壊れたグラスに自然と『ありがとう』という言葉が出てくる。
これは大切な人に対しても同じ。

 

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